【カツラと埋没】脱毛症の人は、トランスジェンダーと同様の葛藤を抱えている。【当事者問題の普遍性】
1.個別の問題にある普遍的な問題を考える
この数か月、「トランスジェンダーの権利を認めると、女子トイレや女風呂が危険になる」というデマが吹き荒れています。SNSを中心に。
こうしたデマに対して、当事者の立場から、一つ一つ反論していくのも大事です。が、SNSのデマに扇情された人々に対しては、「何を言っても吊るされる」状況にもなりかねません。彼ら/彼女らは聞く耳を持たず、「そうはいっても女風呂に性器をぶら下げて入ってくるんだろう!」などと⋯。
そうした際には、構造的な問題をメタ的に考えることが、議論の見通しを良くしてくれることもあるでしょう。つまり他の「問題」と比較しながら、俯瞰してみることです。
2.当事者が声を上げにくい
たとえば、メタな問題として、「そもそも当事者が声を上げにくい」、という事実があります。
トランスジェンダー当事者にとって、埋没することが日常生活、社会生活、とりわけ就労生活を送るうえで、大事なことです。ですので、カミングアウトして主張することは避けたいわけです。当事者として主張することは、カミングアウトするということです。
下記の朝日新聞の記事において、「トランスジェンダー女性」の当事者が、未オペであることをオープンのうえで、顔を出して訴えておられます。おそらく、相当な覚悟と勇気と公共心で、前に出られたのだと思われます。
3.部落問題や脱毛症
このような構造は、社会的にスティグマをもつと考えられる人々(社会集団)をめぐって、共通して見られるでしょう。
スティグマとは、「差別や偏見の対象として使われる属性、及びにそれに伴う負のイメージ」です(wikipedia)。以前、部落問題について書きました。
さて、そのようなスティグマ属性の一つに、脱毛症があることが分かりました。
脱毛症は、「ハ〇」と言われてしまうことがあります。しかも、ほかの差別的な言葉と違って、かなり気楽に。
かつて小林よしのりさんが名著『差別論スペシャル』(たしか⋯)において、「ハゲは笑いをもたらす。ハゲを笑っておけば不幸になる人はいない。何かを差別するならハゲをハゲといって笑っていこう」(大意)というようなことを(冗談かもしれませんが)書いてらっしゃったのを、記憶しております。
「ハゲと口にするのは差別的」というのは、もちろんその通りなのですが、ここには別の問題も隠されています。それは男女の格差です。
男性の場合は、いいっそスキンヘッドにしてしまえばいい、という開き直り方があります。しかし、女性の場合は、たいていの場合、ウィッグ(かつら)に頼ることになるのではないでしょうか。(週末女装子や、「週末女装」状態を余儀なくされているトランスジェンダーの人々にも理解できるでしょう。)
こうしたジェンダー間の違いも含め、「脱毛症は隠すべき」という考えは、歴史的に構築され、また、日々強化更新されているものです。上記のabema TVの動画にもある通りです。
日々構築されていくこうした「当たり前」や共通認識を変えていくには、当事者が主張、行動し、社会の価値観を転覆させたり、ずらしていく必要があります。(「ずらだけにずらす?」いえ、かつらをしてる人からすれば、全然笑えません)
abema動画の出演者の方は、「あえてウィッグをしない」ことを実践されているようです。
しかし、もちろん、そのような主張や行動にはストレスが伴います。「ハゲ」などと、心無い言葉をかけられることもあるでしょう。それをその人が引き受けないといけないのか⋯?
作家や学者などは、自分の作品や言論のネタにできるかもしれません。しかし、市井の労働者たちは、そのようなスティグマ属性(部落、脱毛症、トランス、同性愛、在日、等)は隠して生きた方が、ずっと楽に生きられるでしょう。(もちろん、「パス」して隠せれば、ですが。)
誰かがやらないと、皆が不利益を被る。でも、その誰かは、集中的に不利益を被ることにもなりうる。
当事者運動にとって(おそらく)普遍的なこのような問題の存在は、その問題それ自体の普遍性がゆえに、声を上げる当事者たちに勇気を与えうるような気がしています。
補足
そんなことを考えていたら、銀座の某所にて、やや卑猥な恰好をした(表現が難しいのですが⋯)高齢女装者を見かけました。ビキニパンツが丸見えみたいな恰好です。複雑な気分になりました。「こういう人が目立ってしまうことで、知識のない人にとってはそういう人がトランスジェンダー女性の代表のように映ってしまうんだろうな⋯」などと。もちろん、そうした女装者(女装子さん)を排除するのも違うと思います。うーん、どうしたものでしょうか⋯。
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