小説 (仮題)「終わった男」パート①

 しん、とした世界。
 埠頭はまだ暗く、黄身がかった照明塔が、港湾に並ぶコンテナを音もなく照らしている。
 音はあった。それはコンクリートの岸壁を、僅かずつ、でも確かに削りつづけている波の音で、それはあたりをうすく埋めている。
 そこにあるすべてに、今は、意味などない。でもそこにある。そういう世界だった。

 埠頭から街へ連なる目抜き通りは倉庫街で、その中に、野球の室内練習場があった。元々、労働者たちの草野球用につくったもので、室内練習場の裏手にはグラウンドがあった。グラウンドの土や、マウンドのプレートが見えなくなるほど生えている雑草、そして錆びついて壊れたフェンスまで、今はすべて霜で覆われていた。
 室内練習場の入り口の門扉が開いており、室内に明かりがともった。
室内には、2レーンの打撃練習用のケージがあった。
 そのうちの一つに、小沢百乃助がいた。
 小沢はトレーニングウェアを着て、右手に野球のグローブをはめて立っていた。
 小沢の吐く息を湯気となり、空に舞い、そして消えていった。その表情から、野球が心から好きで好きでたまらないといった要素は、感じ取れなかった。使い込んでくすんだグローブの糸はほつれ、直すつもりもないようだった。
 小沢は、人工芝の上に置いてある松脂の缶を見下ろしている。蓋は空いていて、室内灯に照らされた樹液が飴色に輝いている。
 小沢は、飴色の樹脂を見下ろしていた。そして腰をかがめると、左手の人差し指と中指を樹液の中に差し込んだ。
 人差し指の感触がない。中指は、かろうじて残っている。
 指先まで血が通っていないせいだった。
 投げすぎによる血行障害。
 冬の明け方は、特に症状が重くなった。首の鈍痛は和らぐことはあっても止む時間はなく、何よりも左腕が常にしびれ、小刻みに震えつづけている。
 神経をやられているようだ。

 プロ野球のシーズンは2週間前に終わり、誰もが体を休めている中、一人だけ、休もうとしない男がいた。
 小沢は、その男と契約をしている。だから白い息を吐き、待っていた。
 赤木大成が、バットを片手に入ってきた。その体からはすでに湯気が立ち、さながら怒気のようにさえ見えた。
 赤木は、ユニフォームを着てスパイクを履いている。今すぐ試合がはじまっても万端のように見えた。オフシーズンの自主トレーニングで、ユニフォームを着る選手は珍しい。
 赤木は、37歳のベテラン選手で、もう2年間もプロ球団と契約していない。
 プロでのキャリアは20年。2120本の安打を放ち、425本のホームランを打っていた。5年前にアキレス腱を断裂し、3年前のオフシーズン、我の強さから、背広組、つまり親会社の職員と喧嘩となり、退団した。実績も人気もある選手だったが、その時のことが響いて、他球団と契約することはできなかった。
 赤木は、野球を辞めるつもりはなかった。まだ赤木の中に、打撃の中で求める何かがあるようだった。それが何なのか、同じ元プロ野球選手で、同じ元ドラフト一位でも、一軍で3勝しかしたことのない小沢にはわかるはずもなかった。
「頼む」
 赤木はいつも、そう小沢に声をかけた。それきり、練習が終わるまで、口を開くことはない。
「はい」百乃助は答え、L字型の防御ネットの中に立った。防御ネットの脇には、ボールが山盛りになった籠が置かれている。そのどれもが新品とは程遠いものだった。布がほつれ、縫い目がそろわないボール。あちこちにバットでこすった跡の残ったボール。傷物であった。小沢や赤木のように。
 小沢は、何の感傷に浸ることもなく、籠から手近なものをとった。
 小沢にとって、赤木に投げることは仕事だった。そして赤木から振り込まれる給金は、小沢にとってなくてはならないものだった。生きていくとは名ばかりの泡沫の愉悦のために、なくてはならないものだった。
 小沢はセットポジションになった。グラブの中で、ボールを握る。グリップは人差し指を除いた4本の指で行う。
 小沢が顔をあげると、赤木は左バッターボックスでバットを構えて立っていた。
 赤木は素手でバットを握る。今時、珍しいタイプの選手だった。バッティンググラブは、掌を守り、バットとの摩擦を緩める効果がある。赤木は、その数ミリの溝を受け入れられなかった。
 感覚がずれる…それが赤木の最も嫌うことだった。だから試合と同様にユニフォームを着てスパイクを履く。もう、そのユニフォームも所々ほつれていた。男やもめでは仕方がないのかもしれなかった。
 百乃助は、右足を軽くあげると、左腕をバックスイングする。赤木はジャンケンでタイミングを合わせるようにしてバットを肩の高さで水平に、試合で言えばキャッチャーが座っている方へ引いた。
 百乃助は、あげた右足をホームベースの方へ踏み出すと、体からもっとも遠くまで離した腕を巻き込んで、肘を肩の上まで振り上げると、梃子の原理で肘から先を振りぬいた。 
 山なりのボールが、ホームベースの真上に飛んでいく。
 赤木は、その1球を打ち返すことに人生のすべてを籠めるようにして、バットを振りぬいた。
 メイプル材のバットが牛皮の硬球をたたく音が、室内練習場に響き渡った。
 打球は、試合であれば三遊間の間を破るようなライナーだった。
 赤木は口癖のように、
「バッティングは、踏み込みだ」と言った。
 赤木はスパイクの刃が軋むほど強く踏み込もうとする。
「踏み込む勇気がなくなったらバットを置く」
 とも言う。
 踏み込んで、踏み込んで踏み込む。
 バットがボールをたたく音が続き、籠の中から、ひとつ、またひとつとボールが消えていく。
 小沢は、ただひたすらに山なりのボールを投げつづける。
 綺麗なバックスピンのかかったボールがホームベースをかすめる直前で、鋭く振りぬかれたバットのしなりに捉えられ、時折、トラックの通る街中に打球音が響き渡る。
 
 朝焼けが街を覆うころになると、目抜き通りから、工場街にむかって、勤め人たちが連なって歩いてきた。二車線の国道は、ひっきりなしに車が行きかう。
 街が動き出す時間だった。
 室内練習場はひっそりと静まりかえっている。誰も、門扉が開いていることを気にもとめない。
 
 室内に、赤木の姿はなかった。小沢だけが、剥がれかけた人工芝の上に寝ていた。
 室内に、若い黒人の男が入ってきた。
 男は小沢を見つけると、舌打ちをして近づいてきた。
「ヘイ。ヘイ」
 男は、小沢の横っ腹を靴のつま先でつつく。まるで汚いものに触れるように。
「ネルナヨ。クソったれ。オイ、オイ」
 小沢が目を覚ました。すると男は態度をかえて、しゃがみ込んで小沢を抱きかかえた。
「ヨカッタ。イキテル。イキテルってスバラシイよ」
「アラン」
 小沢は、よだれのついたまま呟く。
「オザワ。ツカレテル。イル?アレ?イル?」
「あぁ。どっちでもいい」
「ドッチデモイイはヨクナイ。イル?イル?」
「じゃあちょっと」
「オッケーね」
 アランは、ポケットから粉末を取り出し、流暢な英語で、
「here you are」と言って、小沢に渡した。
 小沢は、慣れた仕草で鼻から吸い込んだ。

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