小説 (仮題)「再会」パート①
この物語は、章ごとに数字が割り当てられている。
奇数で描かれるストーリーは、主人公の生前の話。
偶数で描かれるストーリーは、主人公の死後の話である。
生前の物語は、時系列が過去へさかのぼる形で書かれていて、死後の物語は、我々が身をもって感じざるを得ない時間軸の中で行われている。
最後に、この物語は、決して読者を幸せにするものではない。そのことだけをここで断っておきたい。
1
信号は、赤だった。行きかう車の前で、通行人たちは足を止めていて、その多くが、一目見て日本人ではなかった。
高架下にある交差点。
日本の観光ガイドを開くと、トップページに出てくる交差点である。交差点は単なるシンボルで、交差点の周りにあるモノが世界でも有数の歓楽街を構成していた。
太陽が落ちたあとが、この街の本領を発揮するときである。
こんな街の路地をいくつか曲がったところに、一神教の精神を体現した中高一貫の女子校があった。
校則は厳しく、駅までの歩いて良いルートは決まっていて、行きも帰りも生徒たちはそこを通っていかないといけない。ルートから外れたら停学である。停学3回で退学。
ただ、ルートから外れただけなのに。
学校創設80周年。一度も、その件で保護者からクレームがきたことはないし、そもそもルートから外れて停学になった生徒が皆無である。
毎年、200人以上のOGを輩出し、毎年10倍以上の倍率をクリアして新入生が入ってくる。
朝の通学の時間は、まるで蟻の行列のように同じ制服を着た女生徒たちが歩いている。
髪も肩から10㎝以上は伸ばせないことになっていて、パーマは禁止。ツインテールも禁止である。
鞄も、学校が指定した肩から下げる鞄しかNGなため、ほとんどの生徒が、鞄以外にも手提げのトートバッグを持って歩いている。中身は教科書である。
学校にはロッカーがある。教科書を持ち帰らないと停学という規則はない。しかし持って帰る。復習と予習のために。
そういう学校であった。
学校の中で、生徒たちにとってオアシスとも呼べる場所があった。
1階の下駄箱のすぐ傍にある3坪ほどのスペース。
購買会である。
購買会には、新品の文房具が売っている。そして何故か、校則の中に購買会についての禁止事項がない。
休み時間になると、店内は生徒でいっぱいになる。
そしてレジスターの前には、マキノが立っている。
レジスターの操作も、商品の説明も、生徒の愚痴の聞き役も、教師からの本の注文も、そして時折訪れるOGたちの世話も、すべてマキノ一人でこなしてきた。
マキノは22年、そこで働いていた。そのおかげで、4畳ほどの店内の隅々まで知り尽くしていた。立て付けの悪いシャッターや、生徒が回転させる度にギーギーと鳴るクリアファイルの回転什器から、夏場に食堂の通路を通ってやってくるゴキブリの出入り口まで。
マキノは、自身の四肢のように店の中のことを熟知していた。
あと5分もすれば、昼休みのチャイムが鳴る。いつもなら、半分開いた店のシャッターが自動であがる時間である。
しかしシャッターは一向に上がる気配がない。
マキノが、床の上でうつ伏せに倒れているからだ。リノリウムに、頬をしたたかぶつけたせいで、あと5年で還暦を迎えるはずだったマキノの頬は、寒冷地で暮らす学校帰りの少女のように赤らんでいる。
マキノは、このまま死ぬ。
仮に、今、マキノが病院の診察台にいて、医者が世界的な名医だったとしても、マキノを蘇生させることはできない。
マキノは、すでに死んでしまっているからだ。
あと4分もすれば、昼休みのチャイムが鳴る。
倒れたマキノを見つけるのが生徒の誰かなのだとすれば、それはたいへん気の毒な話である。
彼女たちにとって、マキノは日常のひとつである。失うことは想像だにしていない。
しかもあの事件のせいで、マキノとの結びつきは、生徒も、教師も、そしてOG達も、もっと強くなってしまった。
マキノは死んでいる。
この先、周りの人たちは二重の悲しみを受けることになる。
マキノの地元は福井である。
3歳上の兄がおり、兄は先祖代々から引き継いだ造り酒屋の社長をしている。マキノの死は、その兄を含めて、親族の心を痛めつけることになる。
とても激しく。
大切な人の死は、周りの人間の心を痛めつける。それは、「とても激しく」と表現しても差し支えないはずだ。
言葉は、鏡に映すようにして、受け手がどう受け止めたかを正確に現すことができない。それは人類の歴史の中で様々な誤解を生み、争いにつながり、多くの人が傷つき、息絶えた。それと同時に、数え切れないほどの芸術も創生された。
とても激しく。
やはり、言葉である以上、差異はある。この物語だけに限らず、言葉は差異を生む。
それがわかっていても書いておきたい。くどいくらいに何度も。
とても激しく・・・とても激しく・・・とても激しく。
マキノの兄は、ある程度、予想していた。
「あんな可哀想な人なのにどうして…」
「あんな酷い思いをした人なのに…」
通夜の席で、数えきれないほど、そういう言葉を浴びせられた。
直接、マキノの兄に伝えた人もいる。
大半は、ひそひそと話していた。
マキノの兄には聞き取れなかったすべての声が、マキノが生きているときに経験されられた過酷な事件について、悲嘆しているように聞こえた。
ひそひそ、ひそひそと話す声。いつの間にか、その音の集積が、たった一人の妹の死を思う悲しみよりも増していることに気がついた。
マキノの兄は、喪主であることも忘れ、通夜払いの会場を抜け出していた。嫁や子供から止められている煙草を、無性に吸いたくなった。
表通りに、煙草の自動販売機があった。送迎バスの車窓から見つけていた。
マキノの兄は、禁煙から半年がたっても、いつも、どこかでタバコの自販機を探していた。もう吸いたいなんて気持ちにならない今でさえ、無意識に探していた。
マキノの兄は、喪服を着て、一人で自販機の前に立っていた。車窓からは気づけなかったが、そこは米屋の軒先にあった。
財布の中には、万札しかない。常にそうだ。それが造り酒屋の社長としてのプライドだと思っていた。
ピースをひと箱、買った。
トレーに、釣銭が落ちてきた。小銭は、飲み屋でチップとして渡すか取り巻きに渡してしまうのが常であった。
千円の束がトレイから排出されて、ピーピーと機械音が鳴りはじめた。
マキノの兄は、何も言わずに立っていた。脳裏に、妹の顔が浮かんだ。叱責する顔である。
いつしか、彼に、妻や子供たちでさえも口出しできなくなっていた。
妹は違った。
妹は変わらず、兄を叱責した。間違っていることを、言った。
ある時期から、兄と妹は距離ができた。
マキノの兄は、は名うての経営者であった。県内だけだった販売拠点を、いつしか海外にまで広げていた。彼の作り出すSAKEは、アメリカや欧州、特にフランスのミシュランガイドに掲載される店で重宝された。
マキノの兄には、嗅覚があった。
酒の味を判断する力は父親には遠く及ばないが、自分の会社のブランドを、価値あるものだと見せつけるための嗅覚である。
誰にも真似するできない才能が、彼を独善的にした。
妹は、兄の独善が生む周囲への弊害を見つけた時、指摘をした。家族や部下がいる前でも平気で。
だから親戚の集まりに、呼びたがらなくなった。いつしか周囲も、マキノの名前を出すことさえためらうようになっていた。
マキノの兄は、王様でいられた。気分が良かった。あの事件が起きるまでは。
そして、妹までいなくなってしまった。
マキノの兄は、トレーから千円札の束を抜き取った。
音が止んだ。
振り返って歩き出そうとしたところで、また妹の顔が浮かんだ。踵を返し、小銭のトレーからとる釣銭を取り上げた。力任せに釣銭を上着のポケットに入れようとして、気が抜けたようにその手を止めると、力なくその手を下ろした。
風が吹いた。
マキノの兄は、周囲を見回した。
一瞬、なんで自分がここにいるのかわからなくなった。右手には、煙草が握られていた。反対側の手には、釣銭が握られていた。
また風が吹いた。
葬儀場と米屋以外、雑木林しかなかった。ぽつん、ぽつんと街灯が立ち、誰も通らない国道を照らしていた。
「有紀子」ぽつりと、マキノの兄は言った。
有紀子、それは彼の妹の名前である。
もう10年、15年以上も呼んだことのない名前である。
3年前、あの事件が起きたときも、呼ばなかった名前。
マキノは、彼の妹は、最後の最後まで、強く、気高く生きた。
「有紀子」
また、呟いていた。
街灯の灯りの中で、名も知らぬ虫たちが中空を舞っていた。
「有紀子」
もう、この世にいない妹の名前を、彼は呼んだ。
何のために?
マキノの兄は、不意に顔を覆うと、膝を折り、その場にしゃがみこんだ。手の中にある煙草と釣銭は、原型をとどめないほど握りしめられていた。
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