「自尊心」が低い本当の理由
長文ですが、あえて目次を設けていません。
ここ10年くらい、若者がやたらと「自尊心」という言葉を使うようになりました。「どうすれば自尊心って高くできるんですか?」と相談されたことが何度もあります。
義務教育で自尊心を高めなければいけない、とでも刷り込まれているのでしょうか?
自尊心を高めるために語学留学に行ってきたんです、という子も結構いましたし、資格を取ろうと思って、という子も多かったです。
でもですよ、できることを増やせば、人より能力が高ければ、自尊心って高くなるのでしょうか?
答えを言うと、なりません。
数か国語を流ちょうに話せるのに「私はダメなんだ」が口癖の人がいました。
国際機関でバリバリ働いているのに、「ときどき自分がみじめになる」という人もいました。
その人たちが共通して抱えているのが、幼少期の親子関係の問題です。
いくら、はたから見て優秀でも、親からの適切な愛情を受けずに育つと、自信も自尊心も付きにくいようです。
子供をけなしたり「どうしてできないの」と親の都合で怒ったりするのは、一生癒えない傷を負わせる暴行と同じなんだな、と認識しています。
世界の貧しい地域にいて気が付いたことがありました。
学校に行かずに親の仕事の手伝いをしている子供たちがいます。
幼いころから仕事を任されているので、10歳くらいになるともういっちょ前の風情で、話した感じも大人びていたりします。
仕事のことを尋ねると、これまた堂々とした様子で答えてくれます。
彼らは読み書きはできないし、学校で習うようなもろもろの知識は知りません。それでも、堂々としてごく自然な自信があり、自尊心について悩んだりはしません。
彼らには迷いがない。
将来、何の仕事をしたらいいのか、テストの成績が悪かったらどうしよう、就職が決まらなかったらどうしよう、嫌われたらどうしよう…。
こういった不安や揺らぎは、彼らとは関係のないものです。
親の仕事を受け継ぎ、幼いころからやっている仕事をつづけてもいいし、そうでなくてもいい。もし家を出ても、仕事がなかったら家族のもとに帰ればいい。
彼らは人として自然な環境に身を置き、淡々と生きています。
本来、「自分の居場所」なんてものは、探さなくてもあるものです。
生まれてくれば親に愛され、大きくなってきたら仕事を教えられ、家族の一員として助け合う。こういった当然の環境が、いまの日本ではレアであるのが問題なのです。
なぜ子供は望んでもいないのに家の外で役に立たないことばかりを教えられ、勝手に評価されなければならないのでしょう?
なぜ外に働きに出るのが当たり前なのでしょう?
なぜ必ず自立せねばならず、親を頼ってはならないというプレッシャーがあるのでしょうか?
なぜ「自立」が美化され、当然のこととされているのでしょう?
貧しい国では大家族が一般的です。そのほうが一人当たりの生活費が割安になって生活が楽になるからです。
日本も昔はそうでした。未婚の叔父さん叔母さんといっしょの家に住んでいるというのも珍しくはありませんでした。しかも、そのうちの全員が働きに出ているというわけでもなく、何人かは無職ということもありました。
それの何がいけないのでしょう?なぜ核家族化が推し進められたのでしょうか?
───答えは税金です。
企業に就職して働く人数が多いほど、税収は多くなります。
同じ理由で女性の社会進出も進められました。
自営業は自分で経費を差し引くから狙った税額を取りづらい。しかも自営業ばかりだと売り上げに変動があったりで税収が安定しないため、予測が立てづらい。それなら、毎月決まった給料を受け取るサラリーマンを増やして、先に税額を引いてから手取りを渡す方法をとったほうが、税金を徴収する側からすると都合がいいのです。
また、核家族化が進んで世帯数が多くなると、増えた分だけ家やアパート、家電製品が売れることになります。5人家族でひとつの冷蔵庫や洗濯機を使っていたのが、自立の名のもとに3人の子供が一人暮らしをはじめると、さらに3台の冷蔵庫と洗濯機が売れることになります。
消費文化に核家族はうってつけなのです。
しかし、社会が自立を美化して当然のこととしてしまったがために、苦しむ若者が増えてしまいました。
核家族化を促進するために「自立」が「孤立」とはき違えられてしまったからです。
本来の自立とは、集団の中で自分の役割をこなせるようになることです。
援軍のない孤立無援の状態で生きていくことではありません。
それは社会的動物である人として自然な状態ではありません。
自尊心が低いのは、決して人としての価値が低いからではありません。
自尊心が低い本当の理由は、生き方が定まっていないから、安心して帰れる場所がないからです。
人々の孤立が促進された結果、おのおの自分の役割や定位置というものが流動的で不明瞭になってしまったがために、不安定な人が増えたのです。
選択の自由は良いこともありますが、裏を返せば「絶対的に必要とされているポジションがなく、広い世界の中で一から定位置を探さなくてはならない」ということでもあります。
だから、だれかに必要とされている感覚を得られない。
広い海の中を不特定多数の人とともに漂っているために、砂浜を構成する砂粒の一つのような気分になってしまうからです。砂粒がひとつなくなったところで、だれも気に留めないのでは、と。
でも、人は砂粒ではない。
砂粒だって、あるべき場所にあれば重要なものになります。
自尊心の悩みを落ち着かせるには、まず自分の役割を安定させることです。
やるべきことが定まっていて、それで食べて生活していけるなら、不安は消えるでしょう。
生活に行き詰っても、怒りもせず嫌味も言わず、「あ、おかえり」「またいっしょに暮らせるね」と迎え入れてくれる家族がいれば、安心して冒険もできるでしょう。
本来ならば、倒れてもけがをしない床がある上で若者を自立させるべきなのです。今の日本社会での自立というのは、飛び込み台の上に立たせて、くるくる回っているさまざまな色の橋の中から一つを選んで飛び移れ!というようなものです。
飛び移れたとしても、難易度の高い橋に降りれば「すごいね」と言われ、簡単な橋に飛び移ると「なんでよ」とぼやかれる。そして、落ちればいないもの扱い。
なんというひどいゲーム。
しかも、本来ならばする必要のないゲームです。
税金を取りやすい人間を増やす教育を受けてきた親たちは、ほかの選択肢を知らずに刷り込まれた価値観を子供にも強要します。
消費社会で育ち、消費を促進するための教育をテレビや学校を通じて受けてきた親たちは、子供も商品のように取り扱いがちです。
子供は親を飾り立てる商品ではありません。
子供は親の無条件の愛情があってこそ、親に尽くされてこそ、まっとうな人間として完成するのです。
子供に尽くされたいのなら、まず親が幼い子供に尽くすべきです。
尽くすとは、服やおもちゃにお金をかけるとか、高い塾に通わせるという意味ではありません。それはゲームの課金と同じです。
尽くすとは、まず一緒にいられることがうれしいという感情を示すこと。子供はきれいな服を買うために親が働きに出ているよりも、貧しくて一着しか服がなくても、親のそばにいてかわいがられることを望んでいるものです。
仕事が忙しくて子供と過ごす時間がなかなか取れなくても、一緒の時間を過ごすときには笑顔でかわいがり、愛情のこもった言葉をかけていれば子供も理解して安心するものです。
子供への課金は愛情とはまた別のものです。親のほうが勘違いしてはいけません。
子供はバカではない。
親が子供と自分自身のどちらを優先しているのか、ちゃんと察しているものです。
子供がかわいくて仕方がなくて物を買い与えてくれたのか、親が自分の世間体のために子供にお金を使っているのか、子供はわかっています。それを割り切れる子供と、割り切れない子供、きれいごとのオブラートに包んで自分を納得させる子供とに分かれていくだけです。
親に消費されることを割り切った子供は、他人を消費することにもためらいがなくなります。自らの利益のために、他者に嘘をつくことも平気になるかもしれません。頭の回転の速い子供が陥りがちな状態ですが、回転が速いだけで彼らに賢さはないのです。
本当の賢さはまっとうな人間性がなければ得られません。
論理的に正しいかもしれないけれど、弱者をないがしろにしたり人を傷つける言葉を頻繁に発する人間は、頭の回転は速くても賢い人ではありません。
攻撃的な言動で人を傷つけに行く人間、人を消費物とみて社会に対して簡単に嘘を言える人間、彼らも親に消費され、傷ついたまま完成されずに育った人間であるのかもしれません。
一見傲慢に見える人間も、実は自尊心が低いというのはよくあることです。
また、割り切れなかった子供は、自信を喪失したまま生きていくことになります。
不甲斐なさを社会に責められることがあるかもしれませんが、それを気にする必要はありません。人は生まれたときにはもう個性があるのです。自分で選んだ性格ではなく、天が与えた性格なのです。割り切れないのは、情が深く自分に嘘が付けないからではないでしょうか。それは良い性質です。情の深さをプラスの感情として他人に向けられたら、それはそれは素敵な人になるでしょう。
筆者は3人兄弟ですが、3人がそれぞれのパターンに分かれていました。
母親は絶対に褒めるということをしない人で、勉強で一番になろうが、運動会で一番になろうが、なぜかいつもけなされていました。家庭内では暴君なのに他人にはへつらうので、褒めるところのないよその子を褒めるために嘘を言ってまで貶められてもいました。映画『プリティ・ベイビー』の母親のあの感じです。
筆者は生まれつきひょうひょうとしたタイプで、あきらめも割り切りも秒速でした。しかし、情が育たなかったので共感力が低く、トーヘンボクで小説が読めません。もうひとりは、自分に嘘をついて記憶を塗り替えて生きています。指摘されると癇癪をおこしますが、まあ普通に生きています。もうひとりは、年をとっても子供時代のことを引きずったまま精神を病んで施設暮らしです。
最後のひとりが一番能力が低かったのかというと、そうではありません。見た目もまあまあです。
みんな、1歳のころから性格が変わっていません。だれが良いというのもありません。ただ、若い子には施設暮らしはしてほしくはない。世界は広いのにもったいないから。
たしかに、3人とも生まれたときから個性が違ったのですが、普通に社会生活を送るふたりと、施設暮らしのひとりの違いはそれだけではありません。
ふたりはいつも自分の外に目が向いていましたが、ひとりはいつも自分について考えを巡らせていた、という違いは大きいと思います。
筆者は図鑑とオカルト本が好きでしたが物を作ったり外で遊ぶのも大好きで、自分について考える時間はありませんでした。もうひとりは漫画やドラマにはまり自分も同じような生活をしようと工夫に務め、そのためには友達が多くないとね!ということで他人にも関心がありましたから、内面を見つめる時間は少なかったのではないでしょうか。
もうひとりは好奇心が薄く、これと言った趣味もなく、かといって人にも興味がなく、いつも自分を見つめていました。
人に何を言われた、人と比べて自分は…ということばかり考えているので、話すこともそういったことばかりでした。常に自分にフォーカスしているので、自分と他人の区別がついていないように感じられることが多く、自分がこう感じているのだから、他人も同じように感じているはずだ、という前提で話をします。自分はいつも自分を見つめているので、他人も自分を見ているはずだと思って、変に自意識過剰なのです。だれか一人に否定されると、全世界に否定されたかのようなリアクションを起こし、だれかに「こうするべき」と言われるたびに、まるでそれが命令であるかのように右へ左へと感情が揺さぶられます。ひとりひとり意見が違う、感想が違うということをとっさに思いつかないようでした。勝手に思い込み、勝手に人様の目を気にしてびくびくしながら生きているのです。
しかし、それはファンタジーです。人はそこまで人を気にしていません。
こういうこともあって、自分以外のものに目を向けることは大事だと思っています。
人は本来、自分が見えないつくりをしています。自分の外を観ることを前提に目が付いています。耳もそう。
生物としての設計の意図に自然に従うほうが、本来はたやすいはずなのです。もし、それが難しいと感じるならば、長年の習慣で神経回路がそのように整備されているからです。シナプスを繋ぎ変えるには少々時間がかかりますが、悩むことをやめると決意して、自分の外に目と心を向ける訓練を意識的に繰り返すならば、そのうちそちらが回路の本筋となっていくでしょう。
実際、そうして立ち直っていく人を何人も見ました。
自分を傷つけた人を感情的に許す必要はありません。それは無理です。
でも、許すことを決める、悩むことをやめる、という決断ならばできるはずです。その人のためではなく、自分のためにです。
生き方や考え方を変えるには努力が必要なこともあるでしょう。
しかし、工夫のほうが大事であることは多いのです。
工夫するとは、考え方を変えることです。前だけではなく、冷静になって横やうしろも見てみることです。
だから、もし「自尊心」のことで悩んでいるのだとしたら、まずは今すぐ「自尊心」について考えるのをやめたほうがいいのです。
考えたとしても、そこに答えはありません。
考えるべきなのは、何をしたら今あるいは将来の生活が安定するのか。
それから、安心して帰れる場所はどこにあるのか。どうやって作ろうか。
温かい家族がいるなら、「自立」なんて言葉にとらわれずに甘えてもいい。
しかし、心が病むのはたいてい、いっしょにいて安心できる家族がいないからですよね。
大人になったのならば、いっしょにいて悪影響があるとわかっている家族とは、できれば距離を置いたほうがいいでしょう。悩む時間を距離を置く方法を考える時間や別のことに振り向けたほうが有益です。他人の言動を変えようとしたり、他人が変わってくれるかもと期待するのは無駄です。
そして、温かい場所を外で探すか作ればいいのです。
でも、手あたり次第ではいけない。調子のよい人に乗せられてはいけない。誠実さがある場所でないと、また傷つくことになります。
できれば個人ではなく、集団を見つけてほしいのです。個人に依存すると、重みに耐えられなくなった個人が逃げてしまい、あなたが傷つくといけないから。
友達でも、サークルでも、町中のカフェでも、教会でも何でもいい。自然体で安心していられる場所を探すといいでしょう。(ねずみ講には気を付けてね)
そのときに忘れてはならないのは、人は自分の鏡だということです。
笑顔を向けてほしければ、自分も相手に笑顔を見せなければならないし、かまってほしければ、人をかまわなければなりません。
「自然体」と「人に気を使わない」は別です。
居心地よく、安心して過ごしたいのなら、相手もそうできる雰囲気をつくる必要があります。
居心地の良い雰囲気はどう作ればよいのでしょう?
それには、「悪口と批判,レッテル貼りを避けること」「攻撃的な態度をとらないこと」「〈~べき〉という決めつけ言葉を控えること」、それから「落ち着いて人の話を聞くこと」です。
人を慈しむこと。要は、そこにいる人々をかわいいひよこちゃんのように見立てて接するといいのかもしれません。
こうして人に目を向けていくと、自分自身について考える時間が減り、悩む時間も減っていくことでしょう。自分の外は無限に広いのです。
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「悩む」ことはループに陥ること。
今すぐ悩むのをやめて、好きなことや、何をしたらいいかを考えてください。一度に複数のタスクはこなせても、一度に考えることができるのは一つのことだけです。
その時間をループに使うか、調べ物や計画に使うか、決めるのは自分自身です。
内側よりも、外の世界に目を向けてください。
「安定」と「安心」が手に入れば、自尊心の罠から抜け出すことができるのですから。