もしかしたらの架空の世界。
大人になって絵本を読むと、子どものときには感じなかった絵本の魅力を感じることがある。
子どもの頃は、たのしい絵本。大人になったら、癒しの絵本。忘れかけていた大切なことを取り戻す時間になる。
かこさとしさんの、『からすのパンやさん』。
わたしはこの絵本の終わり方がとてもすきで、お気に入りの絵本のひとつだ。
あなたが しらない もりの なかで、 どこからか こうばしい おいしい においが したら、 もりの うえのほうを みてごらんなさい。
もし、 かざぐるまが、 ちらちら まわっているのが みえたら、 そこが からすの パンやさんが いる いずみがもりなのです。
もしかしたら、 あなたは、 もりのなかで チョコちゃんたちに あえるかもしれませんよ。
現実的に考えれば、からすがもりのなかでパンやさんをしている可能性はゼロなのだろう。
けれど絵本のなかでは、からすの一家がパンやさんを開いている。森の方向から、こうばしいパンの香りがただよってきて、からすたちがせっせとパンをこねては焼いている。
もしかしたらの架空の世界。架空の世界は、毎日の生活をほんの少しかもしれないけれど、豊かにしてくれると思っている。わたしは架空の世界を考える時間も大切にしたいと思うのだ。
昨日のこと。雨にぬれて、首をすくませながら目の前を歩くからすを見ていたら、からすのパンやさんを思い出した。目の前のずぶぬれのからすも、もりのなかに帰る場所があって、そこでは毎週からすの会合が開かれているのかもしれない。
もしかしたら目の前のからすには役割があって、金沢の街中を歩きながら人間たちの情報を集めているところに雨が降ってきてしまい、ずぶぬれになって困ったなあと思っているところなのかもしれない。
そんなはずないと言うのは簡単だけれど、もしかしたらの世界は、疲れて上手く動かなくなった思考を、やさしくほぐしてくれることがある。
からすたちには、人間の知らないからすたちの世界がある。人間には見ることができない、からすたちの隠れた生活があるのかもしれない。
人間ではない生き物にことばを吹き込むと、途端にさっきまでの無口な生き物が別ものに見える。人間中心で回っているように見えてしまいがちな生活が、実はそうではないというあたり前といえばあたり前のことを、改めて感じることができる。
そうして、人間という生き物に嫌気がさしてしまうこともある。なんて傲慢な生き物なのだろうと、心がすさんでいるときはとくに、そんなことを考えてしまう。
もしかしたらの世界は、そんなすさんだ心をほんの少し穏やかにしてくれる。
からすのパンやさんは、本当に森の中にあるのかもしない。もし本当なら、それはとても素敵なことではないか。
現実には存在しない架空の世界のいずみがもりへ、ぜひ一度、パンを買いに行ってみたい。目をつむって、そんなことを考えてみる。
最後までお読みいただき、ありがとうございます! 泣いたり笑ったりしながらゆっくりと進んでいたら、またどこかで会えるかも...。そのときを楽しみにしています。