わたしを探しに。
今日はフランス映画を。
タイトルとアニメーションのようなカラフルな映像、部屋の中の菜園にさし込むきれいな光に惹かれて選んだ。106分間、不思議な世界で過ごした気分。
海外の映画でもたびたび出てくる、机の上が古びた缶や使い道のよくわからないおもちゃでごちゃごちゃとしている感じがたまらなくすきだ。デスクはきれいにしておきたいけれど、これは別。
”使い道”が目的ではないのだ。そこにあることに意味がある。意味を求めるものですらない。ただの、お気に入りのガラクタ。そんな誰かのガラクタを見ると、その人のこれまで見たことのない顔を見てしまったような、緊張感とこそばゆさを感じることがある。
以前、実家にある勉強机の引き出しを、久しぶりに開けたときのこと。チロルチョコの包装フィルムが大量に出てきた。ディズニーランドで集めたスーベニアメダル、ホグワーツ特急の走るおもちゃ、空っぽの空き瓶、どこにもつけてもらえないキーホルダー。勉強にはおおよそ関係のないものばかりが、数年前と同じ状態のまま引き出しのなかに取り残されている。
とくに理由もなくそれらを眺めていると、不思議な気持ちになってくる。わくわくするのとはすこし違う感覚だ。自分の引き出しだからだろうか。子どもの頃のわたしを、わたしはすきではない。
すきになれないから、せめて許したいと思う。きらいだから。わたしはわたしのことが大きらいだから。だからせめて、ここに居てもいいよと許してみることにした。
誰かを許すことよりも、自分を許すことの方が何倍も難しい。がんばれているかわからないけれど、がんばってもがんばっても、なかなかうまくはいかない。
だけどさきちゃん、一緒にここに居よう。そう言って幼いわたしと手を繋いでいるのは、他の誰でもなくこのわたしだ。ポケットからチロルチョコをふたつ取り出して、ひとつを隣の幼い女の子にわたす。丁寧にフィルムを剥がして、四角いチョコレートを口へ入れる。フィルムはきれいに伸ばして、隣の女の子に渡したい。女の子が笑ってくれたら、わたしも嬉しい。
最後までお読みいただき、ありがとうございます! 泣いたり笑ったりしながらゆっくりと進んでいたら、またどこかで会えるかも...。そのときを楽しみにしています。