ちゃんとしてないポール•ゴーギャン
順風満帆生活
今回はゴッホのときに登場したポール・ゴーギャン。
ゴーギャンと言えばタヒチのイメージくらいしかなかったが、調べてみると非常に国際的で様々なことを経験していて面白い人生を生きているなと思いつつ、実はちょっと恵まれなかったり人生は運やタイミングも重要だなと感じさせてくれる画家であった。
タイトルに「ちゃんと」と記載したが、ちゃんとのちゃんはチャンバラの刀が鳴るちゃんちゃんという音が語源のようで、現代のしっかりしているの意味合いとは反対で、最近へぇーと勉強になったちょっとした蘊蓄ではある。
冒頭から話が逸れてしまったが、ポール・ゴーギャンは1848年パリに生まれる。この年は2月革命があった年で、ナポレオンの甥ルイ・ナポレオンが台頭する重要な年になる。日本では幕末で外国からの開国要求が増し、ペリー来航まではそれから8年程要すが、中国では第一次アヘン戦争があり、世界が本格的に帝国主義へ向かう真っ只中の時期であった。
ゴーギャンの父は新聞記者、母親はペルー人のハーフで彼女の母は有名なフェミニストリーダーで、父と母どちらもゴリゴリの左翼系であった。フランスで2月革命が起こったことで、ルイ・ナポレオンが労働者階級を押さえるため、弾圧を始め、両親はペルーへ逃亡する。その途中、父は船中で病気で亡くなってしまうが、7歳までペルーのリマで過ごすことになる。因みに母親はインカ帝国王家の末裔であったことからペルー滞在中はかなり良い暮らしをしていたようだ。
その後、青年になったゴーギャンはフランスへ戻り、海軍兵学校に入学し普仏戦争にも参戦する。除隊後は証券会社へ入るのだが、前回のゴッホ記事でも書いたとおり、この経験があったことで、お金の管理ができないゴッホに変わりアルルでゴッホとの共同生活を送るのである。
金融恐慌とポン=タヴァンの生活
25歳でデンマーク人の妻と結婚し、4男1女に恵まれ、順風満帆な人生を送るのであるが、証券業の傍ら、画家としての才能を活かしながら絵を描き続けも、25歳の時にまだ画家としてデビューしていないにもかかわらずサロンに入選している。画商のデュラン・リュエルにも購入してもらえるようになり、副業のような形で画家としても稼げるようになっていくのである。
しかし、1882年にフランスで大手銀行のユニオン・ジェネラルが破綻したことをきっかけに金融恐慌が起こり、株は大暴落。当時34歳のゴーギャンは証券業界から身を引き、絵画一本で生計を立てることを決意したが、この決断が後のゴーギャンの人生を大きく左右することになる。
家族は妻の出身のデンマークに帰り、ゴーギャンは一人パリで生活するのだが、生活が厳しく食べていけなくなったため、フランスのブルターニュ地方のポン=タヴァンに移るのである。
当時のポン=タヴァンには、20世紀前半のパリの洗濯船と呼ばれるバトー・ラヴォワールように若いアーティストが集まる宿があり、ゴーギャンはそこで暮らすようになる。ここで画家のエミール・ベルナールと仲良くなり、新たな描写技法を確立していったことで、若いアーティストの間ではゴーギャンへのリスペクトが始まっていくのである。その影響を受けたアーティストたちによって生まれたのがいわゆる「ナビ派」と呼ばれるものである。
若いアーティストからリスペクトを受け、金融恐慌後の辛い生活が漸く好転してきた頃に、あの面倒くさい男、そうゴッホが登場するのである。熱烈なラブレターが日々届き、ゴッホの弟テオの尽力もあり、観念したゴーギャンは仕方なく南仏のアルルに行くことになるのだが、行った2ヶ月後にあの「耳切り事件」が起きるのである。
ゴッホとの共同生活が耐えられなくなり、再びホン=タヴァンに戻ったゴーギャンだが、ベルナールと揉めたり、1889年のパリ万博でも出展した作品が評価されなかったりしたことで、いよいよゴーギャンと言えばタヒチ!のイメージが強いタヒチでの第二幕が始まるのである。
そもそも金融恐慌で世の中が大不況の中、当然趣味の世界の領域の絵は売れるはずもなく、金融業界で論理的思考のゴーギャンであればどちらが稼げるか分かりそうな気もするが、そこが人間の面白いところで、人生お金だけでないということになる。
フォークロア(民族芸術)に魅せられたタヒチでの生活
そもそも何故タヒチなのかと言えば、まずはフランス領であること、次にお金のないゴーギャンにとっては物価が安いこと、そして海軍時代やペルーでの海外経験を活かせたことなどが挙げられるが、ピカソやモリディアーにのように民族芸術への関心があったことがタヒチ行きを決定付けた理由である。
デンマークに妻もいたが、タヒチでは13歳のテハマナを現地妻として娶りとさらっと描いたのだが、にしても13歳って凄いなとしか言えない。
タヒチに行ってからは民俗芸術を取り入れたことが前衛的で徐々に人気となっていくのだが、「イア・オラナ・マリア」のような西洋絵画のベースとなるキリストとマリアをタヒチの民族芸術と融合した作品を描いていく。食文化、服飾文化についても同じことが言えるが、異文化、異なる物の掛け合わせで新しい価値が生まれていくのは間違いない。って昔「間違いない」と言っていたお笑い芸人がいたようないないような。
徐々に人気が出てきたこと1893年にフランスにタヒチでの作品を持参して帰国したのだが、作品はあまり売れず、結局またタヒチへ戻ることになる。戻ったはいいが、13歳のテハマナは既に別の人と結婚していて、それじゃ仕方ないということで、何と次は14歳のパフラという女性と一緒に暮らすようになるのである。時代や国によって違うとは思うが、ゴーギャンは色々な意味で凄すぎる。
しかし、2度目のタヒチ生活はあまり上手く進まず、パフラとの間に生まれた娘も死産してしまい、加えてゴーギャン自身も梅毒の症状に悩まされ、徐々にその心の状態がゴッホのように作品に反映されるようになっていくのである。さらにデンマークの妻との間の娘も亡くなってしまい、ますます自暴自棄になっていくのだが、その中で書いた人生の集大成の作品が「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」である。
作品名も長いが、作品の大きさも「縦1.5m×3.5m」と横長で非常に大きい。鑑賞ポイントは縦に三分割して観ること。右側は赤ん坊、中央に青年、左側に老人などが描かれていて、キリスト教における中央のパネルが大きく両側のパネルを折りたためる三連祭壇画と、ミケランジェロの最後の審判の意味を持たせた作品である。しかし一点違うのが、タヒチの文化的、宗教的な要素を取り入れたことで、実は左側には老人以外に子どももいて、仏教的な輪廻転生の要素も加えられて、西洋と東洋の文化が融合した作品ともいえる。
そんな大作を描いて再びフランスでセザンヌやピカソを発掘した画商のヴォラールが売り込みをかけ、そこそこの評価を得るが、この大作の評価が今ひとつで、さらに落ち込んでしまうのである。しかし、他の作品はそれなりの評価を得ていたので、ヴォラールはさらに描くように依頼するのだが、意気消沈したゴーギャンは描く気力が既になくなっていたのである。。
気落ちしたゴーギャンは1901年にタヒチ諸島近くのヒバ・オア島に単身移住し、再び現地で14歳の妻をゲットするのである。画家としての評価は生前あまり受けられなかったが、この辺りに関してはかなり精力的に活動していたようである。凄すぎるゴーギャン再び!なのである。若い妻を娶ったはいいものの、ヒバ・オア島ではポン=タヴァンやアルルなど昔を懐かしむようになり、描くものも過去の作品をなぞるようなものになっていった。そして最終的に1903年、このヒバ・オア島で54歳で亡くなってしまうのである。
ゴーギャン没後
これがゴーギャンの波瀾万丈の人生になるのだが、実は亡くなると同時に遂に世間がゴーギャンの作品に魅せられて大ブレーク!セザンヌも1906年に没後、1907年の大回顧展でブレイクしたように、現代芸術の芽が出始めていたのである。その後、ブラックやピカソによって現代芸術が開花するのであるが、もう少し生きられていたら少しは生活が向上したのではと思うが、そうならなかったことで後世に名を残したともいえ、奇しくも嫌っていたゴッホと同じく亡くなった後に評価が上がるということになってしまう。というよりもむしろミケランジェロやピカソのように生きている間に名声を得た画家の方が少ないのかもしれない。
ゴーギャンってタヒチでタイトル長い画家でしょ?と思っていたが、ゴーギャンの気持ちや背景を知ると、確かにそれは長くなるなとも思えるし、さらに絵画の知識もさることながら、哲学的な要素も多く、絵画の鑑賞は本当に事前の知識が必要になり、奥が深いなといつも考えさせられる。
ポール・ゴーギャン、ただの若い妻を立て続けに娶っただけの画家ではないのである。
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