妊娠発覚からつわり、そして妊娠を終えるまで(流産の記録)

しばらく更新しない間に、離婚後に出会った方と再婚し、1年間の不妊治療の末に体外受精にて妊娠した。
(新夫との出会いについてはそのうち書きます)

判定日に陽性が出て夫婦で喜んだのも束の間、
つわりが始まり、長女の時と同様にそれはどんどんと酷くなり、あっと言う間に「何も食べれない、何も飲めない」の状態になった。
長女の時と違うのは、それにプラスして嗅覚が異常に敏感になり「この世の全ての匂いが無理」になった。
夫からも娘からも、知らないおじさんの脇のような匂い(比喩)がして、誰にも近寄れない。

毎日朝起きた時から、「また一日が始まった…」と枕を2つ重ねて出来るだけ胃と頭が同じ高さにならないようにして、カラカラの口の中に絡まるペタペタした唾液の感覚を堪え、眠りにつくまで「今日は吐きませんように」と願う日々。
体外受精での妊娠だったので、週に一度の検診で赤ちゃんの無事を確認出来ることだけを希望に毎日をやり過ごしていた。

7週目につわりは重症化し、「妊娠悪阻」の診断が降り管理入院になった。24時間点滴を繋ぎ、栄養なども追加され、とりあえず死なずに済んだと病室のベッドの上でひとりホロホロ泣いた。

とにかく耐えるしかない。2、3ヶ月耐えればつわりは終わるのだ(たぶん)。私は自分の人生でもう1人、最後にもう1人だけ自分の赤ちゃんを抱きたいのだ。

長女の時だって16週でつわりは終わり、その後は胃もたれなどはあったが何でも食べて臨月まで元気に過ごせたのだから…と、自分に言い聞かせ、
「終わりは来る。ずっとじゃない。大丈夫」
わかっていても吐くたびにメンタルは削られ、辛くて辛くて、毎日泣いた。だってまだ7週目なのだ。あと9週間もこれが続くなんて、本当に耐えれるのかしら…。

入院して1週間ちょっと経った頃、突然冷やしたミネラルウォーターなら飲めるようになった。奇跡だと思った。「水が…水が飲めるよ…」と夫に電話して泣いた。夫はとにかく優しいので、とても喜んでくれた。
冷たいおかずも一口ずつなら食べれるようになり(結局吐くのだけど)入院費も馬鹿にならないので、一度家に帰ることにした。お会計は10万円。もし1ヶ月入院したら40万…。


そして8週6日、3回目の検診の日。

赤ちゃんは順調に大きくなっていたが、心拍は見えなかった。心音も勿論聞こえない。
先生は前回のように「順調ですね」とは言わず、「うん…隣の部屋で話しましょうか」と言う。

大きさは週数的には問題ないが、今日は心拍が確認できなかったので、来週もう一度みてみましょう。とだけ言われた。

大きくなった赤ちゃんのエコーを貰って、診察室を出て、会計に呼ばれるまで吐き気よりも頭がどんどん重たく、目の前が真っ白になっていった。

この1年間、不妊治療について読んでいないインターネットコンテンツは無いと言えるくらいに検索魔になっていたのだから、稽留流産を経験した方の記録だって、たくさん読んでいる。そして、私の赤ちゃんは今、お腹の中ですでに死んでいるかもしれないと言うことも、残念ながら分かってしまう。

車で待っていてくれた母が「赤ちゃん大きくなってた?エコーとった?」とワクワクしていて、
「大きくなってはいるんだけど」とエコーを渡して、「心臓動いてないかもしれない」と伝えると母も混乱していて、
「えっ、たまたまかな?そんな事あるの?」と言っていた。
私が何も答えられずに俯いていたので、色々察してくれたのだろう、「とりあえず帰って休もう」とそれ以上何も聞かずに運転してくれた。

娘を午前中の習い事に連れて行ってくれていた夫が後から帰宅して、ベッドで泣いている私に
どうしたの、何があったの、と聞くのだけど
あんなに喜んでくれた夫に申し訳なくて、何も言えずに黙っていたら
「赤ちゃんの事なら、もしかしてこうだったの?なんて推測はしたくないんだよ、大丈夫だから話して」と言われた。
2人の赤ちゃんの事なのに、黙って1人で落ち込むのは間違いなのだ。確かにそうだ。

病院で見た事、言われたことを伝え、夫の目からはあっという間に涙が溢れ、私よりも声を上げて泣いた。
しばらく2人で泣いて、まだ希望はあるよ、信じるしかないよ、と励まし合った。

それから次の検診までの1週間、相変わらずつわりは酷く、殆ど起き上がる事なく過ごし、時々2人で笑ったりもしたけれど、私は毎日泣いていた。

体重は妊娠前から5キロ落ちて、化粧水なんてつけれないので肌はパサパサ、お風呂に最後に入れたのはいつかしら、髪はベタベタのボサボサ。相変わらず匂いづわりも酷いのでマスクを折って鼻にだけ当てて、ズボンを履くと気持ち悪いのでノーブラTシャツにパンツのみ。
私の人生で最も醜い状態だったと思うが、夫は毎日愛してると言ってくれた。何があっても愛していると。

次の検診でもやはり心拍は確認できず、赤ちゃんの大きさは前回と同じままで止まっていた。
我慢したけれど、先生が最後のエコー写真を渡しながら
「残念だけどね、赤ちゃんの成長が止まってるのでね、」と言い始めると涙がボロボロと溢れてしまって、先生の言う言葉に黙って頷き続けた。
もうある程度大きくなっているので、自然排出を待つのは危険なので早めに取り出してあげましょう、と言われ、明日でもいいかな?と聞かれても、
奇跡が起きて明日は赤ちゃんが動くかもしれない、とか
自然に出してあげれば一目でも会えるかもしれない、とか
何だか全然どうしたら良いのか分からなくて、何も答えれなかった。

しばらく別室で休ませてもらい、夫と2人で思い切り泣き、それが1番安全な形なのならばと手術は翌日受ける事にした。

帰宅後も2人で明日の段取りや、今後の治療についてたくさん話し合った。
夫は私が健康で幸せでいてくれることが1番大切だから、もう無理はしないで欲しいと言う。

私は残っている5つの凍結胚をまた移植するのか、したいと思えるのかどうかまだ分からない。
私は現在34歳で、私より年上の女性たちも治療し、何度も流産を経験している方だっているし、それでもたくさんの方が赤ちゃんを抱くことが出来ている。私にもまだチャンスはあると思う。
でも、今はまだ、もう一度傷付く覚悟が出来ない間は、休みたい。
40歳になった時の私もきっと、34歳の今日の気持ちを「あの時無理してでも治療を続ければ良かったのに」とは批判しないと思う。

だって、本当に悲しいよ。
これが私が妊娠してから妊娠を終えるまでの記録。

次は稽留流産後の手術、麻酔のこと、術後麻酔が覚めるまでの珍事について書きます。

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