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好きが免罪符になっている話

昨日は夜寒いと知らずに薄着で出てしまって死んだ弓です。こんにちは。写真は今日行ったお花の教室の写真です。

みなさんは「好き」という感情についてどう思われますか。きらきらとしたものだと思いますか。どろどろしたものだと思いますか。

弓はお米問題と同じくらいずっと考えていることがもうひとつあって、タイトルの通りなんですが、好きという感情は人間の免罪符になっている、ということです。名付けて好き免罪符問題です。

好きだからしょうがないじゃん、というセリフ。それだけあなたのこと好きってことよ〜。なーんて軽くいなされたことありませんか。好きという気持ちが溢れるあまり暴走してしまうということはきっと誰もが一度は経験しているはず。でもこの誰もが一度は経験しているということが免罪符としての効果をより高めているんだと思うんです。

私、ストーカーが量産される理由もここにあると思っているんです。努力は実るとか精神論及び根性論が横行している世の中でそれが好きと結びつくとこれだけ好きなんだから応えてくれるはずという気持ちになるんだろうなと。いや応えてくれるとは違くて、自分は正しいことをしていると思うのだろうな。人間て、好きという純粋な感情にとても寛容なんですよ。片思いをしている人間を自分自身の経験と重ね合わせて同情しているのかもしれません。自分が誰かに届けられなかった分の気持ちを目の前の人間に乗せて、誰かに届けばいいと思うのか。もしくは自分の過去「好き」を理由に行った迷惑行為に対して正当化するために肯定するのかもしれません。

好きを持つ側に同情が起きるということは、好きを持たない側はどうなるかというと単純で、悪になるんですよ。こんなの当たり屋じゃねえか!と思いませんか。でもねよくあるんですよ。好きになってくれなんて、頼んでないんですよ。もっと冷静に書きたいと思っていたんですけど個人的な呪詛が強すぎてちょっと整理が難しいのですが…御察しの方もいらっしゃるかと思いますが弓はこういうタイプの人間に好かれやすくて嫌な思いをたくさんしてきました。だから好きすぎてワケわかんなくなってる人を見ると、ものすごく厳しい目を向けてしまうんですよ。お前はストーカー予備軍やぞと。そんな誰も彼も自分の好きに甘くいてくれると思うなよと。それは自分自身にもです。人を人たらしめるのは理性だと思います。ワケわかんなくなっていても、理性の目を忘れてはいけない。

冒頭の質問ですが。弓は好きという感情はどろどろしたものだと思っています。暴力と言い換えることすら出来ると思っています。でもきらきらしたものに変えることも出来ると思っていて、それには何が必要かと言うと、敬意じゃないかなと思います。好きって、とても純粋で、本能的な感情なんだと思います。そもそもがめちゃくちゃ強いんですよ。そんな凶器を人間に向けるんじゃねえっ!て気持ちも実はあるんですけど、それを嬉しいものにするにはやっぱ剥き出しじゃなくてラッピングが必要だなあと思います。この記事を読んでくださったみなさまに置かれましては、好きという感情について自分がどう考えているのか、仮にそれが相手を大切に思う気持ちだとしたらそのように自分ができているか、相手に泥を投げつけるようなことをしていないか、ワケわかんなくなった時ほど考えてみるというのはいかがでしょうか。まあ、考えた上でワケわかんなくなるんですけどね。いつにも増して整理されていないnoteになってしまった気がしますが一旦これで終わりにします。


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