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聖母性の話

noteを始めて、改めて自分はどんなこと考えていたんだろうと、誰に見せるわけでもなく書き溜めていたiPhoneのメモを読み返しています。

自分にすら2度と読まれることが無いだろうと思って書いているから結構あけすけなことが書いてあって面白い。一番良かったやつを載せます。

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大井町からずーっと京浜東北線で下っていくあいだ、何を考えてたか思い出せない。けどあの人の部屋に飾ってあった娘の写真が本人に激似で全然可愛くなくて、ゲンナリしたのはよく覚えてる。ちょっとした気分の高揚が、ジェットコースターみたいに素早く下に落ちていった。本当はもっとくだらなくて下品でバカな面白い話があるんだけど、電車の中で書けることじゃないから。
夜、大井町駅でこの人のことを待っている間、齧りかけの林檎に群がるゴキブリに遭遇した。私は家でゴキブリを見たことが無くて、みんなほど嫌悪感というものが無くて、見たことあるのはバイト先とか駅とか、目が悪いのであんまりちゃんと見えないし、他の虫との違いもよくわからなかった。人が来たらサーッと逃げていくイメージなのに、私が至近距離で観察していても逃げる気配などなくて、のろのろと歩いていた、もしくはひたすら林檎を食べていた。ゴキブリも野生だと大変なんだなあと思った。
そのあと掃除のおじさんがその林檎を片付けようとトングで持ち上げて、ゴキブリが群がってるのに気付いてもとの場所に戻した。明日の朝その林檎がどうなっているのか確かめなくては、と思っていたのにすっかり忘れて電車に乗ってしまった。

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この話に出てくる人は私が昔大切にしていた人です。私はこの人のことがとても好きでした。バツ1で一人娘と会えなくて、まだ9歳だった娘が成人するまで再婚は絶対にしないと誓っていて、その人の生活に悲壮感なんてものはないんだけれど、なんなのか哀愁が漂いまくっているところが好きでした。あけすけついでに暴露すると、私は自分が聖母のように振舞っている時だけは自分を完璧に許せるような気がして、これは非常に傲慢であり利己的なんですけれど敢えて哀愁系の人と関わっていた気がします。今でも突然弱いところを見せられたりなんかすると、老若男女関係なく好きになってしまうんですね。これについては先日同期にチョロい女の特徴であると指摘を受けましたが…。とても良い言い方をすれば弱っている人に弱いということなんですが、そこには自己肯定が多分に含まれているわけです。そうは言ってもその時は本当に、この人の不安が消えたら楽になったら良いなと思うし自分にできることはなんでもしてあげられたら良いのにと思うのです。子供のように甘やかしてあげたい。この世の全ての悪意から守ってあげたい。どうしようもなく愛しくてその気持ちは本当です。だけどその人が元気になれば私もあー良かったなで終わってしまうので、何かしてあげたいが一生続くわけでは無いので、やっぱり自己都合なんだと思います。

私は自分のことを、他人からの愛をめちゃくちゃに欲しがっているタイプの人間だと思っていたのですが、noteを書き始めて思ったことはもしかして逆なんじゃないかと言うことです。放出したい愛がありすぎて全部を一人に与えたらその人が圧死することを野生の勘で気づいていて、無尽蔵の愛を全て受け止めてくれるようなめちゃくちゃでかい容器を持っている人を常に探しているのかなと思いました。そしてそんな相手が居ないから、愛が自分に向いて愛して欲しいのような形になっている?のかなと。ここらへんはまだ考える余地がありそうです。自分の中で解答が決まった時また取り上げたい議題とします。

つい先ほど目にした情報なのですが、メンヘラ女の特徴として話の全てが「私」に帰結する。というものがあるそうです。薄々気づいていたんですけど私やっぱりメンヘラですね。

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