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右京さんの正義~ドラマ相棒の考察~

私は、刑事ドラマを見るのが好きです。最近は、Tverで相棒もよく見ます。
なぜこれだけ相棒は見られているのか。
気になったので、少し考えてみました。

これだけ長いシリーズが制作されるのは、きっと見られていて、人気だからなんだろうと思います。
今の時代、答えがわかりにくいというか。
真実はどっちなんだろう。この情報は合っているのだろうかと考えさせられることが多くなりました。なんだか心のおさまりの悪い状態は、人には苦痛なのではないでしょうか。
これが正しいと思っていても、常識はくつがえされ、どっちが正解か自分の頭で考えなければなりません。
これだ!という思い込みかもしれないけど、自分の中の価値がちゃんとある人ではないと、悩みにがんじがらめになってしまうのではないでしょうか。そして、考えることに疲れてしまう。

そう相棒シリーズの右京さんは、自分があれ?おかしいと思ったことを臆せずに、調べていきます。そして、どんな悪でも、右京さんの正義の前では、捕まる回が大半です。

どんな状況でも、自分の正義を突き通せるか。
それらは、何を地盤として存在しているのか。
かつて放映されていた水戸黄門みたいな。勧善懲悪。お決まりの。
そういうものときっと本質は似ているのかもしれないと思ったのです。
結局、日本人はそういうの好きなんだろうなって。

勧善懲悪は、それだけではないのは当然のことです。
だけど、すべてを疑ってしまったら、自分の立ち位置もぐらついてしまう。

相棒には、昔から言葉にしないけど、共通認識としてあった正義がそこにあるのだと。
右京さんは、身なりは整っているけど、窓際族だし、浅見光彦だって、お兄さんは偉い人だけど、自分の身分が低いとされるルポライターです。
だけど、地位が高くなくても、そこには、魅力があります。地位でねじ伏せるわけではありません。そういう人物の方が主人公になると、人気があるわけです。
結局、人気のあるキャラクターは、ただ偉そうな人じゃないってことですよね。

一方で、おかしいのは、刑事ドラマを見てると、階級の違いで悪がはびこったり、上からの命令でってずっと言ってるよなと。昔の時代劇でいうところの悪代官みたいな人があいかわらずいるのは、ずっとそういう人も社会に存在し続けているわけですよね。

もし右京さんが、悪を前にして、あたふたと自分の正義を変えてしまったら、相棒は成立しないんじゃないかと思うのです。

みんな言葉にしないけど、考えて、悩みながら、見つける正義とは違う何か沁みついた共通認識の中の正義があるのかなと思うのです。
そうでなければ、長く続く刑事ドラマが存在するわけがないのかなと。

それがどういうことなのか。
私は小説を書くから、自分の中で譲れないものを見つけて書いていければいいなと思いますが。

一方で、想像しながら、見つける正義も存在すると思います。教えられるものではなく、自分で見つけていくもの。
でも、そういうものに悩みすぎたら、一つこれだけは譲れないものを見つける。それだけで、きっと悩みを解決する道へ自分の導いていけるのではないのだろうかと思いながら、これを書いています。

私がずっと信じてるものってどこから来るのかなぁと、自分の中の正義ってなんだろうと。次の小説を書いている途中での考察でした。それが言葉にできたら素敵なことになるんじゃないかと。

(さらなる思考と考察は、創作作業へとつづきます)

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