【短編】ミナト桜(8/8)
「ここ梢君!」若葉は裏返った声で叫んだ。「どうしてあなたがこんなところにいるの」
「それはこっちの台詞だ。仕事で学園内歩いてたらお前を見かけて、ただごとじゃなさそうだと思って追いかけたら、お前は結界の向こう側。やっとのことで侵入したら人が首吊ってる。焦らない方がどうかしてるだろ」
「しごと? けっかい?」早口な湊人の言葉に、若葉はますます混乱する。
「つうか、そんなことはどうでもいいんだ」湊人は若葉を見下ろして言う。「怪我、ないか」
「へっ? う、うん……」
「そうか」
湊人は箒を逆さに持ち換えた。そして紗枝を吊している木の根を、日本刀で斬るが如く箒で叩(はた)いた。たったそれだけで根は灰のように霧散し、紗枝は地面に落下した。
「紗枝ちゃん!」
若葉は慌てて紗枝に駆け寄った。
紗枝はぐったりとしていた。若葉の必死の呼びかけにも反応を示さない。だが呼吸はちゃんとしている。若葉は安堵したような表情を零した。
「お前はここで保護者と待ってろ」
「えっ、梢くんは」
「俺はあいつを祓(はら)う」
「は、はらう?」
「あと俺を苗字で呼ぶな。女みたいで嫌いなんだ」
湊人は歩き出した。彼の向かう先には美希子がいる。桜から数m離れた場所にいた。彼女の前の地面には浅く擦れた跡が残っている。
「突然現れた挙げ句、箒で叩き飛ばすなんて……。あんた、女子の扱いがなってないんじゃないの」
「あぁ、よく言われる」
「おまけに私の結界に土足で入ってきて。あんた、何者なの」
「俺は祓い屋だ。お前みたいに鼻が曲がるほど臭い悪霊を祓うのが主な仕事だ」
若葉は咄嗟に自分の臭いを確認した。
「ハライヤ?」美希子はオウム返しして鼻で笑った。「箒一本でよくそこまで堂々とできるね」
「加減してやったんだ。大人しく降参すれば、それ以上苦しまずに済むぞ」
「言わせておけば」美希子はゆっくりと立ち上がる。「私の愛する人を奪おうとするなヤツは、タダじゃおかないからな!」
美希子はそう言い放つと、両の手のひらを勢いよく湊人に向けた。途端、地面が小刻みに揺れ始めた。地震が来たのかと若葉が警戒していると、地面から何かが勢いよく出てきた。木の根だった。それも五、六本。それらは湊人を囲うようにし、弾丸のように彼へ目掛けて伸びた。
「湊人君!」
若葉が根のことを認識し、危険を察して叫んだ時には、ことは済んでいた。
「俺に本気を出させる前に大人しく降参しろ」
根はすべて消えていた。直後に若葉の顔に風が吹きつけた。目を開けた時には、燃えカスのようなものが湊人の周りを舞っていたが、それも若葉が瞬きをする間もなく消えてしまった。
湊人が箒の柄の先端を地面にトンと着けた。さも槍や薙刀(なぎなた)を所持しているかの如く、その姿が様になっているように、若葉の目に映った。
美希子は目を丸くしていた。ややあって額に青筋を立て、舌打ちを漏らす。
「私が本気になったら、お前なんてイチコロだあ!」
美希子の右手が振り上がると、またしても地面から根が現れる。今度は数こそ一本だが電柱のように太く長い。それが大きくしなって湊人の真正面から襲いかかる。
だがそれさえも、湊人は容易に蹴散らす。自身にぶつかる前に箒を薙ぎ払い、根っこを捌いたのだ。その動きを若葉は見ることができたが、やはり瞬く間の出来事だった。
「降参しろ」
「誰がするかあ!」
その後も美希子の猛攻は続いた。
湊人の足元から突き上げる鋭利な根。夥(おびただ)しい数で攻めたりより太い根をしならせたり、意表をついて細い根を這わせたり。枝を使った奇襲も行った。
しかしそのいずれも湊人には通用しなかった。宙を舞う花びらの如く根をかわしつつ、箒一本であらゆる根を薙ぎ払った。息をほとんど乱さず、表情もまるで崩れなかった。
そのような彼らの攻防を、若葉はヒヤヒヤと見ていた。何度も短い悲鳴を上げ、目を手で覆うこともしばしばあった。だがその危なげな光景にも次第に慣れてくると、今度は瞬きをせずに湊人や根の動きをじっと凝視し始める。息も着かせぬ彼らの動きは、若葉の顔を紅潮させ、手に汗を握らせた。
長い時間が経過した。美希子は糸が切れた操り人形のように膝から崩れ落ちた。ゼエゼエと息が上がっている。顔中から吹き出した汗は滴り落ちて地面に染みを作った。
視界が暗くなった。ハッとして顔を上げると、目の前に湊人が立っていた。
「降参しろ」
湊人は精麻で作られた箒の穂の先を美希子に向けながら言った。月明かりで陰になった彼を前にして、美希子は歯を食いしばった。腕を着いて立ち上がろうとする。が、力が入らず、無様に頬に土を着けた。
苦しそうにしている彼女を三白眼で見下ろしながら、湊人はゆっくりと箒を振り上げる。
「湊人君待って!」
若葉はそう叫んで走り出した。デコボコになった地面を危なっかしく通り、湊人にしがみつく。
「美希先輩は悪い人じゃないの! だから殺さないで!」
「殺すんじゃない。穢れを祓うんだ」
「どっちも似たようなものでしょ! お願い、助けてあげて!」
「ダチ殺されそうになって何言ってんだ」
「そ、そうだけど! でも――!」
「こいつの犠牲者はひとりや二人じゃないんだ」湊人は箒を下ろし、顎で美希子を指す。「この臭いのキツさからして五十はヤってる。それを踏まえてもまだこいつを許せってのか」
湊人は語気を強めた。二人を見ていた美希子は空かさず彼らから目を背けた。若葉の顔はこわばり、反射的に湊人から離れる。が、彼女は引き下がらなかった。再び湊人が箒を上げようとしたところで、うずくまる美希子に覆い被さる。
「それでもダメ! ダメったらダメ!」
「一生そうしてるつもりか。穢れはお前にもすでに移ってるんだ。それは遅かれ早かれ、お前自身やお前の周囲を不幸にする。そうなってからじゃあ手遅れなんだよ」
「一生こうしてるもん! だから周りの人には迷惑かけないもん!」
湊人は舌打ちした。「ガキかお前は! つべこべ言ってねぇでそいつから離れろ!」
「イヤッ! 絶対にイヤッ!」
湊人の顔に血が上り始めた。対して若葉は、小さい体を目一杯使って、美希子を守ろうとする。
「若葉、もう止めて」
下から美希子は丸まったまま囁くように言った。若葉は美希子を抱いたままそれを聞く。
「私がしてきたことは決して赦されることじゃない……。あなたが庇(かば)う必要なんてどこにもないのよ……」
「そんなことないです」若葉は美希子と同じ音量で、しかしハッキリと言う。「私が先輩のこと守ります。死んでもずっと傍にいます」
「どうしてそこまで……」
「ウチ、見たんです。先輩と樹さんがここで話し合ってるの」
美希子はハッと顔を上げた。
「ウチは樹さんの代わりにはきっとなれないけど、でも、先輩が寂しい思いをしないように、一生懸命頑張りますから。だから、先輩は何も心配いりませんからね」
ややあって、一滴の滴が地面を濡らした。雨の最初の一滴の如く、そこから、濡れた地面は面積を増やした。
「――……ぅぅううう……!」
泣き声が上がった。それを聞いて、若葉も感情を堪えることができなかった。美希子のブレザーに染みが広がる。
感情のまま泣く二人を見て、湊人は強く息を吐き出した。直後、箒を天高く掲げ、そのまま振り下ろ――されなかった。
「おーい」
声が聞こえてきた。聞きなれた声に、肩より下がった湊人の腕がピタリと止まった。
「おーい! みーなーとー!」
振り返ると、遠くに手を大きく振る人物の姿があった。若葉と美希子もその声に気づいて、顔を上げた。
「――っ! おせーぞ、旭っ!」湊人は怒鳴り散らす。「こっちはもう祓う寸前だったぞ!」
「そうカッカすんなってぇ。こっちはレディをエスコートしてたんだから、野郎は黙って待ってろよ」
軽薄そうな調子で返答した旭は、デコボコの地面も軽々と越えて、ほどなく湊人たちの元にたどり着いた。
「さぁ、到着しましたよ。お足元にご注意ください」
旭は人を背負っていた。その人物が旭から降りたタイミングで、若葉は声を漏らした。
「根本さんのとこのおばあちゃん……!?」
老婆は驚いたような顔をしながらも、旭に手を引かれて慎重に進んだ。そして美希子の前で両膝を着く。
「美希ちゃん、私のこと、わかる?」
「えっ?」
「さすがにこんなよぼよぼじゃあ、わからなくて当然よね……」
老婆はため息混じりに言った。そこに旭が耳打ちをする。
「お姉さん、あれを」
「あ、そうだった」老婆はズボンのポケットからそれを取り出した。「ほらこれ、結い紐。アタシの誕生日の時に二人で作ったやつだよ。一緒に糸車回して、綿も茜も自分たちで採ってきて」
「あ、あぁ……!」
美希子の震える手が、自分の髪を結う赤い紐に延びた。
「アタシたちが初めて出会ったのも、この桜の木の下だったよね。確か美希ちゃんは、男子たちにからかわれて、泣きながら、ここに逃げてきたんだったよね」
老婆の声が震え始めた。それに誘発されて、美希子の目から再び涙が滲み出す。
「樹……樹なのね……!?」
「えぇ、そうよ」
美希子は立ち上がって樹の胸に飛び込んだ。
同時に、若葉や湊人、旭たちの視界を大量の花吹雪が覆った。視界が晴れた時には、そこには二人のうら若い女がいた。
「馬鹿! 樹の馬鹿ぁ! 何でっ、何であの時来てくれなかったのよ!」
「ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……」
「さびじがったぁあ! ずっとずっと! あいだがっだああああ!」
「アタシもよ……。また美希ちゃんに会うことができて、本当によかった……」
純真無垢な子どものように泣きじゃくる美希子を、若返った姿となった樹は涙を溢れさせながら丁寧に宥めた。
若葉は、今日何度目になるかもわからない涙を流した。春の日差しのように穏やかな微笑みから、朝露を彷彿とさせる滴がポロポロと溢れ落ちる。
彼女たちの様子をニコニコと見ていた旭は、ふと湊人に目をやった。端から見れば、小難しいことを考えているような、あるいは若干不機嫌な印象を受ける仏頂面をしているが、実際には意外と安堵していることを彼は知っている。箒を持つ手に力が入っていない。大方泣くのを堪えているのだろうと思い、悪戯っぽい笑みが滲んだ。
湊人は顔を上げた。この空間を覆っていた禍々(まがまが)しい結界が溶けるように晴れだし、現実の世界との境がなくなりつつあった。
空は白み始めていた。そこへ向かって、美希子の全身から溢れ出したたくさんの光の粒が、蝶のようにヒラヒラと昇っていく。
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