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真っ赤な悪魔

 コン!

 額に衝撃を受けた。

 痛みはさほど強くはなかった。だが重みのあるその一撃に、俺は反射的に「イテッ!」と言葉を発し、その場所を手で押さえた。

体を起こし、周囲を見渡す。手近なところにリンゴがひとつ転がっていた。
赤く艶やかなリンゴだ。あまりに発色がいいので作り物かと思った。だが実際にもってみると、この重みと爽やかな香りから察するに、どうやら本物のようだ。

 こいつが俺の安眠を妨げた犯人か。気持ちのよい夢を見ていたはずなのに、お前がいたずらに落下してきたせいで台無しだ。

 俺は腹いせに勢いよくリンゴを放り投げた。リンゴは丘を転がり落ち、背の高い草むらの中へと消えた。

 俺は再度手を枕にして寝転がり、目を閉じた。

 今日は昼寝には最適の日だ。少々汗ばむくらいの強い日差しと冬の気配を感じさせる冷たい風がなんとも心地よい。空には小さな雲がひとつあるだけ。雨の心配はほぼないだろう。この貴重な快晴の日に、丘の上のこの木の陰でする昼寝は最高に――

 ゴン!

 額に衝撃を受けた。先ほどよりも強力な一撃に、俺は一瞬瞼の裏に火花が散った。

 思わず飛び上がって周囲を確認する。案の定、ヤツがいた。真っ赤に色づくリンゴ野郎が。

 一度ならず二度までも俺の安眠の邪魔をするか。こうなったらお前をそのあたりの岩に擦りつけて跡形もなく擦りおろして……。

 俺はふと上を見た。このリンゴ、どこから落ちてきた?

 どれだけ目を凝らしても、リンゴなんてひとつも実っていない。いや、そもそも実っているわけがない。何故ならこの木はリンゴの木ではなくカエデの木なのだから。

 メープルシロップが滴ってくるならまだしも、どうしてリンゴが落ちてくる? 人が隠れていてリンゴを落とすなんてことも、高さがあまりないこの木ではできるはずもない。木の上に見えるのはせいぜい羊毛のクズのような雲くらいだ。

 まさか、リンゴを次々に生産する雲が存在するとでも言うのだろうか。そんな馬鹿な。天文学的な確率でそんな現象が発生したと仮定しても、よりにもよって何故俺の頭上に落下してくる? 理不尽過ぎる。お前は俺に何の恨みがあるというんだ。

 段々と考えるのが馬鹿馬鹿しくなってきた。俺はリンゴをその辺に放り、場所を移動する。十数歩離れた位置にある別のカエデの木の下だ。そこに改めて昼寝をすることにしよう。

 まったく、一体俺が何をしたって――

 ガン!

 本日三度目の衝撃が、脳天から全身に走った。木の棒で思いきり殴られたようなその一撃に、俺は思わずその場で丸くなった。火花が散ったどころではない。綺麗な花園が見えた。

 ようやく痛みが引いた。目を開ければ、足元に赤い悪魔がいた。よもや怒りを通り越して恐怖を覚え始めている自分がいることに、正直驚きを隠せない。

 何の因果かはわからないが、暢気に昼寝をしている場合ではないのは確かだ。このままでは大怪我を負いかねない。

 俺は急いで家に戻ろうと駆け出した。直後、背後で物音がした。嫌な予感がして振り返ってみれば、大玉のリンゴが地面にめり込んでいた。さらには、俺が通り過ぎた場所に次々とリンゴが降ってきた。

 雨のように降り頻るリンゴの砲弾から、俺は全力で逃げた。リンゴが落下してくる頻度は徐々に増した。さらには命中精度も上がっている。狙われたのか偶然なのかは定かではないが、一発だけ――そう、もはや一個ではなく一発なのだ――俺の爪先のわずかに先に落下してきたリンゴもあった。

 俺を目掛けて落下してきたリンゴはすでに百をゆうに超えているだろう。店が開けそうな数に達しているにも関わらず、リンゴが一体どこから落下してくるのは不明のままだ。俺の頭上には、雲ひとつない清々しい空が広がるばかりである。

 心臓が壊れそうになった頃、ようやっと自宅に到着した。半ばドアを破壊する勢いで屋内に転がり込んだからに、針仕事をしていた母は、目玉が飛び出さんほどに驚いていた。

 一体全体何があったのかと、母は俺に尋ねる。俺は必死に説明しようとするが、呼吸が乱れて言葉を発することができなかった。

 むしろこの場に留まるのは危険だ。家が倒壊する可能性は十分にある。ここにくるまでの道中、リンゴは他所様の石垣やら馬車やらを容赦なく破壊していた。

 説明などしている暇はない。早くここを出なければ。だが一体どこに逃げれば……。

 ふと、窓から射し込んでいた日光が消え、室内が暗くなった。
まさか、という考えが働いていた時には、既に体が動いていた。俺は母の手を掴み、雷のような速さで勝手口から外へ出た。

 振り返っている余裕はなかった。だが、母の言葉にならない叫び声と、ゴウゴウと唸る音で、おおよそ事態の予測はできた。お陰で、間もなく襲いかかってきた凄まじい衝撃波にも、なんとか反応して受け身を取った。

 土煙が収まると、凄惨な光景が俺の目に飛び込んできた。俺の家があった場所には、視界に収まらないほど巨大なリンゴが鎮座していた。

 何もかもが無茶苦茶だ。本当にどうしてリンゴが落ちてくるんだ。まさか俺自身がリンゴを引き寄せているとでも……。

 小さな発想が生まれそうだった。だがそれを深く思考している暇はなかった。リンゴがゆっくりと傾き、俺に向かって転がってきたからだ。
俺は死を悟った。

 コン!

 額に衝撃を受けた。

 痛みはさほど強くはなかった。だが重みのあるその一撃に、俺は反射的に「イテッ!」と言葉を発し、その場所を手で押さえた。

 体を起こし、周囲を見渡す。すると傍らに、不機嫌な顔をした母が立っていた。いつまでも俺が起きてこないから起こしにきたのだという。それだけならよくあることだ。だが母の手にリンゴが握られていたのを見て、俺は思わずベッドの隅に飛び退いた。母は俺を怪訝な表情で見ながら、早く朝食を摂るようにと言って部屋から出ていった。

 俺は朝食を済ませたあと、先ほどの出来事を可能な限り詳細に紙に記録した。それが数年後に万有引力の法則を説く論文の下地になることなど、この時の俺は夢にも思わなかった。そんなことよりも、自分がリンゴ恐怖症に陥ってやしないかという心配の方が大きかった。

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