あるミカン
コタツにミカン。これ以上に最強な組み合わせは他にないだろう。
コタツに猫? 可愛いがまだ物足りない。
コタツに鍋? 悪くないが俺は料理ができない。
コタツにアイス? 大福アイスは際どいが、やはり邪道だ。
コタツにお茶? 合うけどお茶では腹は膨れない。
コタツに煎餅? 欠片がボロボロとこぼれるから掃除が面倒臭いし、もとよりそこまで好きじゃない。
コタツにプリン? どっからその発想が出てきた。
コタツにカレー? わざわざ合わせなくてもいい。
コタツにミカン? 文句なし。完璧。非の打ち所がない。百点満点中百二十点。至高。究極。二つでひとつ。運命の赤い糸。コタツにとってミカンはなくてはならない存在なのだ。
「というわけで、このミカンはオレが食べる」
「どんな理屈だよ」
オレの双子の兄光彦(みつひこ)は言った。オレよりも目つきが悪いのに、高校に上がってから急にオレより女子にモテるようになった。大変気に食わない。
兄貴の目がさらに鋭くなった。
「俺の手がお前の手の下にあるのが見えねぇのか? つまり、これを先に手にしたのは俺だ。大人しく寄越せ」
「唯我独尊の兄貴は気づいていないだろうから説明してやるよ。俺たちがほぼ同時にコタツに入ったその時、この篭の中にはミカンが十個あった。兄貴は既に五個ミカンを食べているのに対し、オレはまだ四個しか食べていない」
「細けぇやつだな」
「言い逃れはできないからな。ゴミ箱を調べれば、兄貴が花びら状に剥いた皮が五個なのに対して、オレが渦巻き状に剥いた皮は四個出てくるに違いないからな。だからこれはオレが食べるべきミカンだ」
「物事の上っ面しか見られない愚弟は気づいていないだろうから教えてやるよ。確かにミカンは十個あった。が、お前が食べた四個は、その中でもベスト4の重量のあるミカンだったんだよ。単純に五個と五個で分配すべきじゃねぇんだ」
「兄貴の方がよっぽど細けぇよ」
「ってなわけで、これは俺が食う」
「兄貴なんだから弟に譲れよ」オレは身を乗り出す。
「弟なんだから兄貴の言うことを聞け」兄貴も身を乗り出す。
「これはオレのだ!」
「俺のだって言ってんだろうが!」
「そこまで言うなら力尽くで奪い取ってやる!」
「やれるもんならやって――」
ゴン!
「つまんねぇことでケンカしてんじゃねぞ、馬鹿息子ども」
母さんはオレたちの脳天に思いっきり拳骨を食らわせた。股間まで響くような痛みに、オレも兄貴も身を屈めた。
「いってぇ……。いきなり殴ることないだろ!」兄貴は声を荒げた。
「今にも取っ組み合いを始めようとしてたヤツがよく言うよ」
そう言って母さんは、最後のミカンを取った。
「オレのミカン!」「俺のミカン!」
「光彦、あんた学校から帰ってきて早々にミカン二個も食ったろ」
「えっ、あ、いや、その……」
「食っただろ?」
「……はい、頂きました……」
兄貴はシュンとして言った。いい気味だ。
「そして幹太(かんた)、あんたは光彦より先に帰ってきて、三個も食ってたよな」
「えっ⁉ あぁ、そ、そうだったっけ?」
見られていたのか。一体いつの間に……。
「というわけで、このミカンは私が貰う」
「「え~!」」
「そして幹太は倉庫からミカン好きなだけ持ってこい」
「えぇ~⁉」「ヨッシャ!」
「あんたたちのためにミカンは腐るほど大量に買ってあるんだ。そういうつまんねぇ争いは、せめてミカンが全部なくなってからにしな」
そういって母さんはミカンの皮を割るように剥いて食べ始めた。あぁ、オレのミカンが。
「で、でも母さん、今雪降ってるんだよ? しかもメッチャ吹雪いてるし。こんな天気に外に出るのは危ないんじゃないかな?」
「冬生まれの雪国育ちがなぁに軟弱なこと言ってやがる。なんなら玄関前の雪掻きをついでにしてきてくれてもいいんだぞ? どのみち、明日の朝一で二人にやらせるつもりだからな」
「いやでも……」
「それがイヤって言うなら、私はもっと手荒なことをしなきゃならなくなってくるなぁ」
母さんは不敵に言った。俺の目には、長いストレートの髪が触手のように蠢いているように見えた。魔王のように圧倒的な母さんの眼差しを前に、オレはそれ以上言葉を返すことができなかった。
ニタニタと笑っている兄貴の顔に一発入れてやりたい衝動をグッと堪え、コタツから出る。丹念に蓄えていた温もりが瞬く間に襲われた。だがここで音を上げてコタツに戻ってしまっては男が廃る。兄貴にも馬鹿にされる。母さんには殺されかねない。
オレはヒーターの近くに干しておいたウェア、ネッグウォーマー、ニット帽、耳当てを急いで身に付けた。そして玄関に向かい、ブーツを履き、手袋をギュッとはめて外に出た。
吹雪いていなかったのは幸いだった。だがそれでも、明るい夜空からは容赦なく大粒の雪が降り注いでいた。積雪は膝上程度。家に面した道路はまだ除雪車が通っていなかった。
この積雪の中をえっちらほっちら掻き分けて進むことを想像しただけで、ゲンナリしてしまう。しかしこのまま立ち往生していては凍結してしまうだろう。凍てつく空気は僅かな隙間も見逃さず服の下に侵入してきて、オレの体温は着実に削られていく。
覚悟を決めてオレは雪に足を踏み入れた。新雪の、柔らかいのに重たい感触に足が持っていかれそうになった。
玄関からプレハブの倉庫までの距離は25mもない。今ようやく半分くらい進んだ。しかしオレの体力はすでに500mを泳いだくらいに消耗していた。
振り返れば、オレが必死に切り拓いた道が一直線に伸びている。帰りのことを考え、一歩一歩、雪を強く踏み固めて進んでいたのだが、何もここまでやる必要はなかった。それなら雪掻きしながらの方がまだ楽だったろうに。お陰でスッカリ汗だくだ。顔から放出される熱が薄い湯気となって立ち上っている。
ようやく倉庫に辿り着いた。早くミカンを持って帰って、至福の時を満喫したい。
倉庫の扉をスライドさせて開けた途端、中で何かが動いた気配があった。微かな物音がして、差し込んだ雪明かりに写った影が動いたのだ。背筋が少し寒くなった。
何だ? ゴキブリかネズミだろうか。猫や狸にしては物音が小さかったような気がする。まさか小人? さすがにないか。
オレは慎重に中に入った。そしてスマホのライトを使って、影が向かった方向を重点的に照らした。
間もなく、床にミカンが転がっているのを見つけた。その手前には段ボールがあり、封ができないほどにミカンが入っている。
どうやら扉を開けた衝撃で、箱からミカンが転がり落ちただけのようだ。きっと母さんが半端だったミカンをひと箱にまとめたのだろう。
怖がって損した。とっととミカンを運んでしまおう。
オレは端に寄せられた、畳まれた段ボールの束の中から手頃なものを選んで組み立てた。ここにミカンを詰めて運ぼう。まずは件の転がり落ちたものを拾う。
逃げられた。
オレはしばらくの間、その現実が受け入れられずにその場で固まっていた。
ミカンが逃げた。しかも足が生えていた。四本足だった。細い尻尾もあった。動きだけを見れば小さなネズミのように素早くチョロチョロとしたもので、あっという間に棚の物陰に隠れてしまった。
ジワジワと鳥肌が立ってきた。居ても立ってもいられなくなって、また動き出すのではという恐怖と戦いながらも、オレは手当たり次第にミカンを箱に詰め込んで、決死の思いで家に逃げ帰った。
全身から汗が滲み出ている。しかし背筋は恐ろしいほどに冷たかった。
オレは段ボールを土間に置いて、その場にしゃがみ込んだ。
「……一体何だったんだよ、あれ……!」
見間違いだよな。それともミカンの食べ過ぎで頭がどうにかなっちまったのか? ミカンを食べ過ぎると幻覚が見えてしまうのか。確かに麻薬のように次々に食べちまうもんな。これからは少しずつ食べる量を――
「随分時間かかったな」
顔を上げると母さんがいた。玄関と廊下とを仕切るドアのところに立っている。
「まさか本当に雪掻きしてくれたの?」
「い、いや、やってないけど……」
「な~んだ、さっきの詫びも込めて熱烈に褒めてやろうと思ったのに」
母さんは首を振った。いやいや母さん、それどころじゃないんだって。もっとヤバい状況なんだってば。
「……ね、ねぇ母さん」
「ん?」
「ミカンってさ、食べ過ぎたりすると、普段見えないものが見えたり、逆に見えるものが見えなくなったり、そんなことって、あると思う?」
母さんは絵に描いたような怪訝な表情を浮かべた。「何だりゃ? クイズか何かか?」
「いや、そういういんじゃなくって……幻覚作用が現れるっていうか……。あぁもぅ、自分でも上手く説明できない!」
母さんは首を傾げた。「私もよくわかんないけど、昔は口が酸っぱくなるくらい、あんたたちに注意してたよ。『ミカン食い過ぎると手が黄色くなるぞ』とか『ミカンになっちまうぞ』とかな」
「み、ミカンになる?」
「あくまでもものの例えだよ。子ども騙しとはいえ、あんたたちのミカン好きの前には何を言っても無駄だったからね」
そう言って母さんは玄関から出て行った。
オレもミカン箱を一旦玄関に上げて、ブーツを脱いで中に入った。
リビングに戻ると兄貴はコタツで寝ていた。卓上に腕枕をしてうつぶせになり、口からよだれを垂らしている。まったく、人がどんな目に遭ったかも知らないで、いいご身分だ。
オレは大量のミカンを卓上に置き、兄貴の向かいに入った。コタツはオレの冷えた体を優しく暖めてくれた。その気持ちよさにオレまで眠りそうになったが何とか耐えた。
さて、この能天気な兄貴にどんな屈辱的なイタズラを仕掛けてやろうか。とりあえず口元が寂しいので、オレはミカンの皮を渦巻き状に剥いていく。
「何でそんな変な剥き方するの?」と小中学生の頃には散々聞かれたものだ。それに対して当時の俺は「説明するような理由なんてない。これがオレのスタイルだ」となどと格好つけていた。あれも一種の中二病の一種のなのか。へそ曲がりであったことには違いない。
気を取り直して兄貴へのイタズラである。
真っ先に思い付くのは、やはりミカンの皮を頭に大量に載せるイタズラだ。だがそれは幼い頃からお互いにやりまくったせいで、される方もやる方も飽き飽きしている。ゆえに却下。
兄貴の瞼を無理矢理開けて、そこへミカン汁を飛ばすイタズラも定番である。起こさないようにイタズラを遂行するスリルは癖になり、痛み苦しむ兄貴の姿は何度見ても笑える。だがスリルを犯す割りに成功率は低い。上手く汁が飛ばないからだ。しかも今食べているミカンは皮が薄い品種なので、出る量も飛距離も不安がある。ゆえにこれも却下。
どうせなら新しいイタズラを考えたい。ここれミカンをひと口。
そうだ、ミカンの白い筋を寄せ集めて鼻の穴に詰めてやろう。そこまで難しくないしスリルある。なにより寝苦しくする兄貴の表情を見るのは面白そうだ。よし、これで行こう。
オレは残ったミカンから筋を採集する。ミカンひとつ分では足りなかったのでさらにもうひとつ分採取した。ふっふっふ。兄貴め、気持ちよく寝ていられるのも今のうち――
兄貴をニヤニヤと見ていたところで、オレはそれに気づいた。一旦ミカンを机に置き、身を乗り出して兄貴の頭にグッと顔を近づけ、目を凝らした。
兄貴の頭頂部、つむじがある辺りにミカンのヘタがあった。緑色で小指の爪ほどの大きさをした、あれだ。
髪に引っ掛かっているのだろうかと思い、軽く摘まんでみた。が、ヘタは取れなかった。この感触、頭皮に接着しているとしか思えない。
まさかそんな。さっきの動くミカンの件といい、やっぱりオレはミカンの食べ過ぎで頭がどうかしているんじゃないのか。頭にミカンのヘタがくっついているなんてあり得ない。イタズラしようとしていた手前だが、ここは兄思いの弟としてヘタを取ってやろう。
少しばかり指に力を込めた。すると先が頭皮に刺さった。
慌てて手を引いた。嘘だと思いたかったが、この感触は数えきれないほど味わってきたから間違いようがない。
この感覚はミカンの皮を剥く際に爪を立てた時のそれと、まったく同じだ。
あまりにも衝撃的にオレの頭はショートした。制御を失った身体は、それが身につけた動作をどこまでも純粋に遂行する。オレの指は兄貴の頭を渦巻き状に剥き始めた。間もなく、爽やかな香りを発すると共に、頭皮の下からみずみずしい橙色をしたおいしそうなミカンの房が――
ハッとして顔を上げた途端、目の前にミカンの皮が大量に落ちてきた。
「っち、もう起きやがった」
そして悔しそうな顔をした兄貴がコタツの向かいにいた。その手にはミカンの皮が握られている。
「あ、兄貴!」 オレは慌ててコタツから出て土下座した。
「えっ、は?」
「ゴメン! ホントにゴメン! ほんの出来心だったんだ! 決して、決して中身を食べようとした訳じゃないんだ、信じてくれ!」
「おいおい! 何でお前の方が謝ってんだ?」
「だ、だってそれは――!」
オレは顔を上げ、兄貴の頭を見た。剥かれていなかった。生まれた頃から幾度となく見てきた、ミカンよりも多く見てきた、いつもの通りの兄貴の頭があった。
「あ、あれ……? だってオレ、兄貴の頭をグルグルって剥いて、それでミカンが――」
兄貴は怪訝な表情を浮かべた。
「お前、変な夢でも見てたのか? それともミカンの食い過ぎで頭がパーになったのか?」
――夢? あぁ、そうか、夢だったのか。そうだよな、あんなこと起こるわけないよな。
「アハハハ……」
「急に謝ったり笑ったり……変な奴」
「気にすんな。何でもないから」
兄貴は首を傾げた。だが間もなく突然噴き出した。
「んだよ、いきなり馬鹿笑いして」
「ダハハハ! だって幹太、お前の頭!」
「頭?」
「つむじんとこにミカンのヘタついたまんまだぞ!」
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