【短編】ミナト桜(エピローグ)
「美希ちゃんが亡くなったことを知ったのは、あの日から二年近く経ってからだったわ」
春芽(はるめ)樹改め根本樹は、遠い目をしながらお茶を啜った。その視線の先には年期が入った欄間や振り子時計などがあるが、きっと自分には想像できない壮絶な光景が見えているのだろうと、若葉は察する。
「命からがら日本に帰国したアタシは、いの一番にあの子の家に向かったんだけどね、そこにはもうあの子の家はなかったの」
「えっ、もしかして、空襲で焼け落ちちゃったとかですか」
若葉の質問に、樹は首を横に振った。
「聞いた話では、世間様の目に耐えきれなくて夜逃げしたみたい」
「――へ」
「当時は勤労奉仕の時代だったからね。私情で自ら命を絶つようなことをしたら、非難されて当然だったのよ」
若葉は返す言葉も見つからなかった。無垢材の座卓の上の湯のみを握る手に力が入った。
樹はさらに続ける。
「あの子に先立たれたことも辛かったけど、美希ちゃんのお墓もお仏壇もなかったから、お花もお線香もあげられなかったことも辛かったわね。約束した桜の木にお供えしようとも思ったんだけど、空襲に遭ったのか伐採されたのか、とにかくなくなってしまってたのよ」
若葉は小さく声を漏らした。
あの一件があった日。若葉は、学校のトイレで爆睡していたという嘘を用意して紗枝を家に背負って届け、自分の両親や紗枝の両親からも色々と言われながらも、いつも通りに通学した。そして教室よりも先にミナト桜に向かった。
桜はどこにもなかった。デコボコになっていたはずの地面も何ともなっておらず、美希子の姿もどこにもなかった。狐に摘ままれた気持ちでいる間にチャイムが鳴った。
その後、時間ができる度に捜したが、すべて徒労に終わった。
話の切れ間が生まれた。それを見計らい、若葉は口を開いた。
「あ、あの、おばあちゃん」
「なぁに」
「あ、あの……おばあちゃんは……」
どうして美希先輩に会いに行かなかったの? そう尋ねようとしたが、その言葉は若葉の喉に魚の骨のようにつかえた。どうしても気になって仕方がない。だが彼女の古傷を開かせるような無粋なこともしたくはない。相反する考えが頭の中でグルグルと渦巻いた。
「話を聞く限り、皆戸美希子はあなたが満州に行く前に、二人で駆け落ちしようと提案していたんですよね。何故あなたはそれに答えてあげられなかったんですか」
若葉の隣、樹の真正面であぐらをかく湊人は淀みなく言った。それを聞いて、俯きげだった若葉の顔が一瞬で湊人の方を向く。何で君がそれを聞くの。そのような思いを瞳に宿して湊人を見たが、彼が意に介している様子はまるでなかった。
樹の表情はさらに暗くなった。だが間もなく口を開いた。
「アタシの父がね、とても厳格な人だったの。自分の言うことに従わなかったり反論するようなら容赦なく叩かれたわ。当時の父は陸軍少将で、長いこと家を留守にしていたのだけれど、それでも父の影がアタシを鎖のように縛りつけて、私は家から出ることができなかったの」
何か樹をフォローすることを言おうと若葉は思案した。だがそれよりも早く、樹はさらに続ける。
「いいえ、違うわね。結局は私の意志が弱かったせい。あの子の気持ちよりも保身に走った、私が全部悪いのよね」
「そ、そんなこと――!」
「そうかもしれませんね」
若葉の言葉を湊人が遮った。一発殴ってやろうかという目で若葉は彼を睨み、実際に拳を握っていた。だが湊人はそうとも知らない様子でさらに続けた。
「もう起きてしまったことは、残念ながら取り返しがつきません。ですが、あなたのお陰で、彼女の穢れは一番良い形で祓われました。彼女が自身の行いを悔い、またあなたのことをまるで恨んでいなかったことも大きかったでしょう。そして何より耶麻や生綿は無事でした。今回はそれでよかったと、俺は思います」
場の空気がわずかに軽くなった。
若葉は拳を解いた。樹は潤んだ目をしながらも朗な笑みを浮かべる。
「ありがとう……。この年まで生きていて本当によかったよ。本当に、ありがとう」
「お礼はいりません。悲しそうにしている淑女に手を差し伸べるのは、紳士として当然のことですから」
湊人の隣、旭は爽やかに言った。だが先程樹からお礼としてもらったメンチカツの食べカスが歯に挟まっていた。
「ありがとう。若葉ちゃんも湊人君も、ありがとう。またお店に寄ってくれたら、たーんとサービスするからね」
若葉は笑顔を返し、湊人は黙ってお茶を飲んだ。その後ほどなく三人は根本家を出た。
「湊人君はおばあちゃんと知り合いだったんだね」
種取駅まで湊人と旭を見送る途中、若葉は前を歩く湊人に言った。
「それがどうかしたか」湊人は振り向かずに返す。
「だって知り合いじゃなかったら、あの時おばあちゃんのこと連れ来るなんてことしないでしょ。美希先輩との関係とか、色々知ってたのかなって思うじゃん」
あぁ、と湊人は声を漏らした。
「根本さんから直接、皆戸美希子の話を聞いたわけじゃない。ただ、図書館とかで調べたり寺に来るお年寄りに話聞いたりしていくうちに、そうなんかじゃないかと思ったんだ」
「えっ、寺?」
湊人は親指で旭のことを指差す。「こいつの実家が寺なんだ。根本さんともそこで何度か会った」
「えっ、旭君のお家ってお寺なの?!」
「そうだよ」湊人と並んで歩く旭は、振り返って得意気に言う。「成陽院(せいよういん)っていうお寺でね、ここから三駅先の廿日前(はつかまえ)駅の近くにあるんだ。厄除けが必要な時はいつでも来てね。あ、俺に会いに来てくれるのももちろん大歓迎だよ」
「あ、は、はい……」
若葉は苦笑しながら言った。ほどなく気づく。
「あれっ? けどおばあちゃん、美希先輩のお墓はないって……」
「別に、皆戸美希子以外の墓参りもするだろ」
「あ、そっか……」
「それで言うと、もしかしたら美希子さんは、ちゃんと弔ってもらえてない可能性があるね」
「えっ、そうなの?」
「例え自殺でも、簡略的でもいいから葬って、遺族や遺された人たちにきちんと弔う気持ちがあれば、故人も成仏できるはずなんだ。それがなかったから、美希子さんは此岸で延々と苦しい思いをし続けたんだと思うよ」
真面目な表情で語る旭の言葉を若葉は真剣に耳を傾けた。本当にお寺の子どもなんだと、深く納得する。
「もしかして、湊人君のお家もお寺?」
「うちの家系は神社だ。こいつと一緒にするな」
「お寺と神社って仲悪いの?」
「いや別にそういうことじゃなくてだな――」
「俺たちはこう見えてもチョー仲良しだぜ」旭は湊人に肩を回す。「よくカラオケとか行くし、昔はよくお互いの家でお泊まり会とかもしてたんだぜ」
「へー」
「余計なこと言うな。あとうっとうしいから離れろ」湊人は旭の腕を振りほどいた。
「いーじゃんかぁこんくらい。一緒に修羅場を潜り抜けてきた仲だろ」
湊人と旭はあーだこーだと、駅の改札を通ってからも言い合っていた。二人の姿が見えなくなり、若葉は呟く。
「あの二人にも、きっと色々なことがあったんだろうなぁ」
自然と顔が綻んだ。
「若葉ちゅあーん! はい、あーんっ!」
「あ、あー……ん」
「どう、今日の弥生ちゃん玉子焼き! 何点?」
「んーっと、七十点、かなぁ。これはさすがに甘過ぎかな。あともう少しレアなのがいいです」
「むむぅ、若葉ちゃんチェックはマジ厳しいっすな」
大槻弥生(やよい)と若葉のやり取りを傍らで見ていた紗枝はクスクスと笑う。「若葉、すっかり大槻さんと打ち解けたね」
「えっ、そうかな」
「そうだよ。最初は警戒心が強い猫みたいだった」
「だって大槻さん、ウチのこと見て息荒くしてたんだもん」
昼休み、三人は中学部校舎の四階ラウンジにいた。小さなテーブルの周りに椅子を寄せ合って食事を摂っている。弥生がオーバーなリアクションをしたならば、若葉と紗枝は吹き抜けを通って一階まで届くような大笑いをした。
「来週はもう中間テストだねぇ」
弁当箱を片付けながら若葉が言った。それを聞いた紗枝と弥生はあー、と暗い声を漏らした。
「まぁ、範囲狭いから大丈夫だとは思うけど」紗枝は若葉から目を逸らした。
「ねぇ、マジちょっと心配」弥生は苦笑いする。
「ウチより勉強できるはずの二人がそんなんで大丈夫?」
「若葉ちゃんは大丈夫なの?」
「んー、一応毎日予習復習してるから、多分平気」
おぉ、と紗枝はニヤニヤと感心した。一方の弥生はスゲーなー、と達観した様子で言う。だがややあって、大きい声を漏らして手をパンと叩いた。
「中間終わったらさ、今度こそみんなでカフェ行こうよ」
「あ、いいね、行こ行こ」
「ウチ、俄然やる気出た」
「いいなぁ、私も行きたい」
「いいですよ、先輩も一緒に――」
若葉は後ろを振り向き、そして椅子から転がり落ちた。そこには当然のように美希子が立っていた。
「みみみ美希先輩っ?! なな何でこんなとこにいるんですか?! 成仏したんじゃないんですかあ?!」
「してないから、失礼しちゃうなぁ」
「だだだだって、全身からこうキラキラー! って、光がお空に昇ってってたじゃないいですか!」
「あれは穢れが祓われただけ。お風呂に入ったようなものだから」
「ずっと探してたのに!」
「知ってる。でも、あんなところ見られたことが滅茶苦茶恥ずかしくて、出てこれなかったの。ゴメンなさい」
「なっ……えぇえ……!?」
困惑する若葉を見て、モジモジとしていた美希子も腹を抱えて笑った。
「若葉、もしかしてこの人が仲良くなったっていう先輩?」二人の顔を見比べながら紗枝は尋ねた。
「こんにちは、高等部三年の美希です。よろしくね」
「あ、は、はい、よろしくお願いします」
「あぁ、ハーレムだ……! 弥生ちゃんハーレムがマジで今ここに出来上がろうとしている……!」
「大槻さん、ちょっと何言ってるかわからない」
若葉は椅子に座り直し、美希子を見上げる。わずかに口を尖らせていた若葉だったが、美希子の楚楚(そそ)とした笑顔に、次第に表情を和らげた。
「あ、そうだ」美希子はポンと手を叩く。「お近づきの印に、今日の放課後みんなに奢ってあげるよ」
「マジっすか?! やったー!」
「そんな悪いですよ」
「遠慮しないで。お腹いっぱい食べさせてあげるから」
「すみません」紗枝は頭を下げた。
「それでそれで、何を奢って頂けるんですか」
前のめり気味になる弥生の質問に、美希子はニンマリと笑みを浮かべた。それを見て若葉は気づく。
「あの先輩、もしかして」
美希子は若葉にウインクした。「根本さんのメンチカツ。若葉にも好きなだけ奢ってあげるからね」
<了>
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