【短編】ミナト桜(7/8)
微塵も風が吹いていないために、太い枝から吊り下がる紗枝の体はピタリと静止してる。そのことが、その惨(むご)たらしい紗枝の姿を現実離れしたものとして、若葉に印象づけさせた。
嘔吐のような強いむせ返りののち、若葉の体はようやっと呼吸を始めた。空っぽになってしまった頭に充分な酸素が届けるために、心臓は爆ぜるように激しく動く。だがそれは痛みを伴った。若葉は胸を強く強く押さえてうずくまる。また、頭に酸素が回ったことで、思考が働くようにもなってしまう。
紗枝ちゃんが死んじゃった! 何で?! どうしてこんなことになっちゃったの?! 私のせい?! 木に名前を彫った私のせいなの?! 何で何で何で何で何で!!
暴力的なほどの自責と混乱が紗枝を襲う。脳内で巨大な鉄球が跳びはねるような感覚に苦しんだ。心臓と脳はもはや負荷に耐え切れそうにもず、若葉の心は崩壊寸前だった。
強風が吹き荒れた。身の毛のよだつような毒々しいものだったが、若葉がそれに気づくことはなかった。
「大丈夫?」
たおやかな声が若葉の耳に入ってきた。同時に肩の上にひんやりとした手が乗った感触があった。その声は若葉の荒れ狂う脳に金の鈴のように響き、冷静さを芽生えさせる。そして冷たい感触は暴れ狂う心臓をたちどころに冷却し、ぐずる幼子を宥めるように徐々に落ち着かせた。
若葉はよだれと涙でグチャグチャになった顔をゆっくりと上げた。
「美希先輩……?」
「こんばんは、若葉ちゃん。まぁ、出来れば今夜は会いたくなかったけどね」
若葉の目の前で美希は笑顔で言った。幾度となく見とれた彼女の笑顔だが、若葉はこの時初めて、それを美しいものとして認識することができなかった。闇に溶け込むような、怪しげな笑みに感じられた。背筋が冷たくなる感覚に襲われる。
そのことに困惑したことが、若葉が現状を思い出す引き金となった。
「あ、あああの、ああれっ、紗枝ちゃんが!!」
「大丈夫、まだ死んでないよ」
「えっ」
「確かに首に木の枝がかかってはいるけど、実は服の下で根を四肢に巻きつけてあって、そっちで体を支えてるの。だから窒息はしないよ」
「えっ、えっ……」
「まぁでも、グズグズしてたら死んじゃうかもね。根から血をすこーしずつ吸ってるから」
「あ、あの……」
「ほら見て、桜に蕾がついてるよ。一滴残らず血を吸ったあかつきには、凄く綺麗な桜が咲き乱れるよ。ふふふ、楽しみだね」
潜み笑いを溢す美希に、若葉は苦笑すらできない。
「先輩は……さっきから一体何を言ってるんですか」
「ふふ、自己紹介、まだちゃんとしてなかったね」
美希は立ち上がると、スカートの裾を両手で摘まむカーテシーのスタイルで、これ見よがしなお辞儀をする。
「改めまして、私の名前は皆戸(みなと)美希子(みきこ)。昔この木で首を吊って死んだのは、この私だよ」
若葉の目が点になった。
「み、みな、と?」
「そう。みんなの戸口って書いて『皆戸』」
若葉は全身に鳥肌がたったような感覚に襲われた。
「えっ、ミナトって男の人で、そそそれに確か二年生だったたはずじゃ!」
「こんな苗字だからね、男子に間違われたことも珍しくなかったよ。それと、死んだ当時は二年生だったよ。まぁ、今の緑は三年生の色だから、気づけなくても当然ね」
若葉は魂が抜けたように呆然自失として、言葉を返すことができなかった。
「アハハ、カワイイ! 凄くカワイイよ、若葉! ほら、もっとよく顔を見せて」
美希子は若葉の前に再びひざまずき、水を掬うように彼女の顔を上げた。驚愕やら困惑やら恐怖やら、様々な感情がない交ぜになったような表情を、美希子は頬を桜色に染めて眺めた。
「あぁ、ホントにカワイイ。食べちゃいたいくらい」
美希子はゆっくりと、若葉の唇に自分の唇を近づける。だが触れ合う寸前のところで、若葉は美希子の肩を両手で強く押し、彼女を突き放した。そのまま反射的に立ち上がり、二三歩美希子から距離を取る。
地面に倒れた美希子は、若葉を見てヌッと唇を突き出した。だがすぐに笑みを作り、何事もなかったかのように立ち上がった。その余裕のある態度が、若葉の不安と焦りを増幅させた。
「なっ、何でこんなことするんですか!」
「んー、こんなことってどんなこと」
「どうして紗枝ちゃんをあんな目に遭わせたのかってる聞いてるんです!」
「えー、お友だちがあんなことになったのは若葉のせいでしょ」
「ーーっ!」
「私言ったでしょ。名前を彫ったら、『私が』その人と死んでもずーっと一緒にいられるって」
「い、言ってない! そんなこと言ってなかった!」
「でもあなたがお友だちの名前を彫ったのは紛れもない事実でしょ。確かに私はあなたに拳銃を渡したかもしれない。けど、実際に引き金を引いたのはあなたよ」
「そう、ですけど! でもっ! でも何で……!」
若葉は唇を強く噛んだ。目に溜まった涙がポロポロと溢れてこないように、必死に堪える。その様子を見て、美希子は口に手を添えて笑った。
「そんなにあの子のこと助けたいの?」
「当たり前です! 紗枝ちゃんは私の親友なんです!」
「ふ~ん、若葉との大事な約束そっちのけで他の子と遊びに行こうとするような子が、若葉の親友なんだ」
「そ、それは……――って、何で先輩がそんなこと知ってるんですか!?」
美希子はニヤリと歯を見せて笑った。
「知ってるよ。学園内であなたの身に起こった出来事はぜーんぶ知ってる。なにせ、入学式の日に若葉が坂下門を通ったその時から、あなたが学園にいる間はずーっとあなたのことを見ていたからね」
「えっ……」
「ふふふ。可哀想な若葉。お友だちと離ればなれになって、クラスの誰からも相手にされなくって、お友だちに駄々こねてもやっぱり構ってもらえなくて、それを必死に堪え忍んで……。孤独なあなたが可哀想で可哀想で、可愛くて可愛くて、そして堪らなく愛おしい……。あなたのことを見ているとね、もう何十年も昔に失ったはず私の心が、苦しいほどにときめいてしまうの!」
美希子は胸に手を当て、恍惚とした様子で言い放った。若葉はまた一歩、美希子から遠ざかる。
「話が逸れたね。――で、それでも若葉は、あの子を助けたいの」
しばしの沈黙ののち、若葉はしっかりと頷いた。美希子は鼻で笑った。
「なら、今度は自分で自分の名前を彫って」
「う、ウチの名前……?」
「うん、そう。『ヤマワカバ』って、しっかりと」
若葉は紗枝に目をやった。ここからでは彼女の表情を見ることができない。だがすでに限界が近いことは窺い知れた。少し前から、手の中のヘアピンから声が聞こえなくなっていた。
脚が震えていることに気づいた。上手く足に力が入らない。だが一方で、ヘアピンを握る手は、自分でも信じられないくらいの力が入っていた。
「名前を、彫れば……本当に紗枝ちゃんのこと、助けてくれるんですね……?!」
震える声で若葉は美希子に訊ねる。けれども美希子は精巧な笑みを浮かべるばかりで、口を開こうとする様子はなかった。
パキッ! 手の中から小さな音がした。
若葉は肩が上がるほど大きく息を吸い込み、そして吐き出した。震えは脚だけではなく全身に回った。ガチガチと歯が小刻みにぶつかり合う音がする。しかし彼女の眼差しは揺るぎない意志を宿して、爛々と輝いていた。
「そんな顔もするんだね。それはそれでカワイイよ、若葉」
美希子の揶揄に動揺を隠せず、若葉はロボットのような歩き方で彼女の横を通過した。その際、美希子の顔を見た。ニヤニヤとした表情の美希子と、一瞬目が合う。すぐさま目を逸らしたが、蔦のように絡む彼女の視線が頭から離れなかった。足が速まる。紗枝の姿も直視することができなかった。
改めて見上げた桜の木は、若葉の目に山のように大きく映った。実際には、若葉の体格でも抱えられるくらいの太さしかなく、高さも、登れば十秒もせずに登りきれる。だのに、今にも自分に向かって倒れてきそうな圧倒的な存在感があった。
枝にはいくつもの蕾がついていた。いずれも大きく膨れており、二つ三つ開きかけているものもあった。ほの暗い月明かりの下でもハッキリとわかる、瑞々しく赤い花びらを覗かせている。
若葉は血の凍るような恐怖と滾(たぎ)るような焦燥を感じた。震え上がり、慌てて根元にしゃがみ込むと、既にそこにあった古びた彫刻刀を手にする。
彫る場所を探していると、幹に刻まれたいくつもの名前が目に入った。漢字もあればカタカナもある。そのほとんどが、若葉が夕方に彫ったものとさほど変わらない真新しいものであることに、若葉は疑問を抱いた。だが中には、時の経過を感じさせるものが二つ存在した。
ひとつはおそらく『ミナトミキコ』。何とか判読できた。もうひとつは『ハ×××××』。こちらは周囲が焦げたように黒ずんでいて判読は難しかった。だがその名前が、美希子の想い人のものであることを若葉はすぐに察した。
美希子が裏切られ、恋い焦がれ、自ら命を絶つほどの想いを寄せていた相手。好奇心を刺激された若葉は、焦げ目を剥がそうと思い、それに触れた。
「イヤ! そんなの死んでもイヤ!」
鼓膜を破らんばかりの女の大声が、若葉の背後から突然聞こえた。驚いて振り返ると、そこには二人の女がいた。
ひとりは美希子。髪型はいつも通りのポニーテールだが、服装はブレザーではなく、紺のセーラー服に継ぎ接ぎな無地のもんぺを着ている。目を真っ赤にして人と対面していた。
相手はおさげの女だった。おさげは短い三つ編みで、先を赤い紐を結ってある。若葉に背を向けているため、若葉には彼女の容姿はわからない。美希子よりも背が低くて小柄。美希子と同じセーラー服を着ているが、花柄のもんぺは真新しいものだった。
これはいったい何なのか。若葉は唖然として辺りを見渡す。
周囲はいつの間にか昼になっていた。少し離れたところには高くて大きい木造の建物がある。またどこもかしこも満開の桜だらけで、ミナト桜においても、ごく普通の薄紅色の花が若葉たちの頭上で美しく咲き誇る。吊られていたはずの紗枝もどこにもない。また、二三歩下がればぶつかる距離にいる若葉の存在に、美希子たちが気づくようすはまるでなかった。
夢か幻でも見せられているのだろうか。それとも。
若葉がそのようなことを思っていると、再び美希子の叫びが響いた。
「私たち、この木で誓い合ったじゃない! 『死ぬまでずーっと一緒にいよう』って! 私を裏切るの?!」
「ゴメンなさい……」おさげの少女は消え入りそうな声で言う。「けど、こんな時だもの。お国のためにも、家や家族を守るためにも、アタシが頑張らないと」
「そんなの大人の勝手な都合でしょ! 樹(いつき)が行く必要なんてどこにもないわ!」
美希子は声が裏返るほどに叫んだ。ボロボロと涙が流れ始める。端麗な容姿の美希子はそこにはいなかった。若葉は目頭が熱くなるのを感じた。
おさげの少女は美希子を抱き寄せた。美希子の艶のない後ろ髪を撫でる。
「たった半年の間だけだから。それまでの辛抱だから」
「私にとっては一生も同じよ!」美希子は顔を上げる。「生きて帰ってこれる保証がどこにあるっていうの!?」
「それは……」
「樹は私と一生離ればなれになってもいいっていうのね! 私のことなんて、もうどうでもいいのね!」
「――っ、そんなわけないでしょ!」
樹と呼ばれたおさげの少女は力任せに叫んだ。美希子も若葉も呆気に取られていると、彼女は顔を手で覆い、下を向いた。
「アタシだって嫌よ……! けどアタシにはどうすることもできないよ……!」
堪えようとしても堪え切れていない、樹の泣き声が若葉たちの耳に届いた。涙がピタッと止まり、狼狽える美希子。だがややあって、花が咲いたような表情で声を漏らし、樹の肩を掴んだ。
「だったら逃げよう、二人で!」
「――えっ」樹は驚いた顔で美希子を見た。
「誰も追ってこれないようなどこか遠いところまで! 愛さえあれば、何とかなるわ!」
「美希ちゃん……」
「だからお願い、満州になんて行かないで! 死んでもずっと私の傍にいて!」
美希子は笑っていた。若葉が幾度となく見た笑顔よりも、さらに純真なものだった。ただし細めた目からは大粒の涙が止めどなく流れ落ちている。
樹は顔を伏せていた。肩を震わせ、やはり声を殺しているようだった。
二人を傍観する若葉は、瞬きの度に涙を溢していたが、今にも立ち上がらんばかりにウズウズと動いていた。
樹さんったらどうして何も答えないの!? そんなの即決で「一緒にいる」って言うところでしょ! 何を悩んでるの!
若葉の胸中など知る由もなく、樹は下を向いたまま、口を開く。
「ゴメン、私、もう行かなきゃ……」
「樹!?」
「家から抜け出して来たこと、お母様に気づかれちゃう。そしたらもう、本当に美希ちゃんに会えなくなっちゃうわ」
美希子は歯を強く噛み締めた。彼女の顔を見ないようにしながら、樹は彼女の手を払って駆け出した。
「樹ぃい!」走り去る樹に向かって美希子は叫ぶ。「出発の前日! 私ここで待ってるからあ! あなたなら絶対に来てくれるってー、信じてずーっと、待ってるからああ!」
美希子がどれだけ悲痛に叫んでも、樹が足を止めたり振り返ったりすることはなかった。しかし彼女が泣いていることを、若葉は察する。彼女が去ったあとにはキラキラと光るものが見えた。
樹の姿が見えなくなると、美希子はその場に座り込んで大声で泣き始めた。誰にも見聞きされていないと思っているからか、鉛色の雲に覆われつつある低い空に向かって、赤ん坊のように泣き叫ぶ。
若葉はギューっと胸を押さえた。スポンジを絞るように、彼女の目からさらに涙が流れ出した。
刹那、猛烈な桜吹雪が若葉の視界を奪った。
「手、止まってるよ」
気づけば真横に美希子がいた。ブレザーを来た、若葉が見慣れた美希子だ。顔を覗き込む彼女の頬に涙の跡はない。枝の隙間から零れる月光は笑顔の彼女を照らし出した。若葉は美希子のその笑顔を、今度は美しいとも恐ろしいとも思わなかった。
「早くしないと、あの子、本当に手遅れになるよ」
若葉は振り返って紗枝を見上げた。人形のようにピクリとも動かない彼女の姿を見ていると、不思議と美希子の姿が重なった。
先輩も昔ここであんな風に……。
若葉は紗枝から目を背けた。彫刻刀を握る手に力が入る。
「美希先輩」
「なぁに?」
「私がいれば、先輩はもう、寂しくないですか」
美希子の目が見開いた。ややあって遠い目をして言う。
「えぇ、若葉がずーっと傍にいてくれるなら」
美希子の言葉は若葉の胸の奥底まで響き、痛みを生んだ。
若葉は長く息を吐いた。吸って、彫刻刀の刃を樹皮に添える。
背後で物音がした。とっさに振り返ると、そこには美希子ではない別の人物が立っていた。
「やっと見つけたぞ、羊パンツ」
湊人だった。ここまで走ってきたのか肩で息をしている。また彼の手には、身の丈ほどの柄がついた箒が握られていた。
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