【短編】ミナト桜(2/8)

「若葉、そんなに落ち込まないで」

 放課後、階段を降りながら紗枝は言った。後ろに続く若葉は、頭上に鉛色の雨雲が浮かべているかの如く落胆していた。まともに紗枝のことを見ることができず、首はほぼ直角に曲がっている。

 若葉は今しがた職員室に赴いた。そこで担任である丸眼鏡をした初老の女性教師から穏和ながらも長い説教を受けた。その後、桜のヘアピンが届けられていないかを、福耳が特徴的な担当の男性教師に確認したが、今日はまだ何も届けられていないと返された。

「あれはもう若葉のものだから。私ももう気にしてないし、何ならまた若葉にも作ってあげるから。先生に怒られたのだって、若葉が全部悪い訳じゃないんだし」

 若葉は返事をしなかった。彼女が憮然としているのは、ヘアピンの紛失と担任からの説教に加え、もうひとつ理由がある。

 教室に戻った若葉はクラスメイトたちの好奇の視線を容赦なく浴びた。着席しても、独り遅れて自己紹介をしても、担任が明日以降の予定を説明している時も、自分への揶揄や嘲笑が聞こえているような気がしてならなかった。紗枝のヘアピンもない。四面楚歌の心持ちで、放課後までの時間を、唇を強く噛んで過ごした。

 だが紗枝にその一件を話すことを若葉はためらった。ヘアピンを失くした罪悪感がそうさせた。また本当は気にしているのではないかと勘ぐってしまう上に、紗枝との約束も頭の片隅にあった。

 私はもうお姉さんにならなければならないんだ。もう紗枝を頼らないで、独りで頑張らなくちゃいけないんだ。だから--

「若葉!」

 紗枝は明るく声を張った。階段を戻ると、若葉にグッと接近し、 若葉の口角を指で持ち上げる。

「はい、笑顔っ!」

 それに合わせ、紗枝は大げさなほどの満面の笑みを湛えた。それを目の前にして若葉の顔がわずかながらも自然と綻んだ。頭上の雲も少しだけ晴れた。

「元気出た?」

「ちょっとだけ。ありがと」

「よかった。それじゃあ根本さんとこのメンチカツ、食べに行こ」

「うん!」

 二人は一階に降りてきた。それぞれ自分の下駄箱へ向かおうとした。

「おい、お前」

 声がした。若葉がそちらを見ると、下駄箱の側面に寄りかかっていたひとりの男子生徒がこちらに近づいてきた。

 彼を見た途端、若葉は鼠のような素早さで紗枝の背後に隠れた。

「えっ、なになに、どうしたの?」紗枝は背後に首をねじる。

「あああの人!」若葉は声を潜めた。「さっき話してた人!」

「え?」

 紗枝の前に三白眼の少年が立った。愛想がまるでない彼の顔を、紗枝はムッとして見上げる。

「何かご用ですか?」

「お前に用はねぇよ。用があんのは後ろにいるチビだ」

「私から伝えておくのでご用件をどうぞ」

「お前は保護者か? いいからチビと話させろ」

 紗枝は唇を尖らせた。三白眼の少年からなるべく目を離さないようにしつつ、若葉を優しく呼んだ。紗枝の肩の陰から、若葉は顔を出す。 

「わ、私に何かご用でしょうか……?」

 三白眼の少年は無愛想なまま、若葉の前に拳を突き出した。殴られるかと思い、若葉は咄嗟に首を引っ込める。だがしばらくしても拳は引っ込められることはなかった。

「これ、お前んだろ。渡り廊下に落ちてたぞ」

「――へ?」

 若葉は彼の手の下におっかなびっくり手を出した。間髪をいれず、三白眼の少年は傷の多い拳を開く。そこから落ちたものが若葉のぷにぷにとした手に載った。

 桜のヘアピンだった。

 若葉は目を丸くして三白眼の少年の顔を見上げた。小さな花を周囲に咲かせるような表情を浮かべる。が、口を開いたところで言葉に詰まった。赤ん坊のように柔らかな頬がプクリと膨らんだ。

「何だよ、その顔は」

「君、若葉に言うことあるんじゃないの?」

 紗枝は再び三白眼の少年に鋭い視線を送る。少年は眉をしかめると、小さく首を傾げ、短い髪を掻きながら考え始めた。ほどなく彼の低い鼻がヒクヒクと動いた。あ、と声を溢す。

「お前、ちょっと臭うな」

 脳天に巨大な岩石が落ちてきたような衝撃が若葉を襲った。

「はい、どーん!!」

 直後、三白眼の少年の背後から別の男子生徒が走って来て、そのままの勢いで三白眼の少年に飛びついた。垂れ目が特徴的な人懐っこそうな人相の人物だ。彼もまた少し服を着崩している。彼が身に着ける校章は、大海原を連想させる群青色に『中』の字だった。

「なぁ。いつまで待たせんだよ。早くカラオケ行こーぜー?」

「っイテーなぁ。今行くからもうちょい待ってろ」

 苛立ちを露にして三白眼の少年は言った。それをまるで意に介さず、垂れ目の少年はキシシシと笑っている。そして紗枝と若葉の存在に気づくと、それは悪戯な笑みに変わった。

「おぃおぃ湊人(みなと)君、そういうことなら早く言ってくださいよ~。入学早々、俺のためにこんなに可愛い女子を二人も誘ってくれるなんて」

「馬鹿か、そんなんじゃ……――ん?」

 三白眼の少年は発言の途中で異変に気づいた。

 若葉が真っ青な顔をしていた。よもや魂まで凍りついたかのような形相を浮かべ、一歩、また一歩と、ガクガクと震える足を下げていく。

「おい、どうし――」

 彼がすべてを言い終える前に、若葉は電光石火、上履きのまま昇降口を飛び出した。

「えっ、ちょっと、若葉!?」

 紗枝は靴を履き替え、一旦戻って若葉の靴を下駄箱から見つけてから、若葉を懸命に追いかけた。

 取り残された少年たちは顔を見合わせた。

「ふっ、可愛い子猫(キティ)ちゃんだぜ。俺がイケメン過ぎるあまり赤面して逃げちまった。俺って罪な男だな」

「明らかに顔面蒼白だったぞ」

「じゃあお前の目つきが悪いのが原因だな。こわーい狼に睨まれた彼女は臆病な子うさぎちゃんだ、かわいそうに」

 湊人と呼ばれた三白眼の少年は鼻を鳴らした。彼の視線は自然と若葉たちが走り去っていった方を向いていた。


「思い出した。多分あいつが梢(こずえ)湊人だよ」

 紗枝は声を荒げて言った。正門にあたる坂下門を出た直後の横断歩道を渡りながらだ。

「有名なの?」

 若葉はペットボトルの水を飲み、尋ねた。動悸はいまだ激しく、片手で胸を押さえている。

「隣の席の子がね、たまたまそいつと同じ蔦(つた)小の子でさ、『そいつ変人だから気をつけて』って言ってたの」

 すでにクラスの子と打ち解けている紗枝に、若葉は無意識に恨めしい視線を送っていた。

「変人って、どんな?」

「ん~と……夜中に学校に忍び込んで美術室メチャクチャにしたとか、女子トイレで箒振り回してたとか、誰もいない教室で独りで喋ってたりとかって聞いた」

「なに、それ……」

「私にもよくわかんないけど、でも絶対関わらない方がいいよ。それ抜きにしても、初対面の女子に『臭う』だなんていうやつ、絶対性格悪いから」

 若葉はうつ向いた。本当に臭っていやしないかと、口臭や体臭を再三再四確認してしまう。

 二人は足を止めた。学園の最寄り駅である種取(たねとり)駅前の踏切で警告音が鳴り響き、遮断機が閉じ始めていた。上りと下りの急行電車があっという間に目の前を通り過ぎる。遮断機が開いて二人が線路を横断し終えた頃には、再び警告音が鳴った。それを聞きながら若葉は口を開く。

「けど、その人、ちゃんとした人なんだよね」

「いやだから変人なんだって」

「そうじゃなくって! ……その、幽霊とかじゃないんだねってこと」

「ゆうれい?」紗枝は怪訝そうに聞き返す。

「だって名前、ミナトって言ってたから……」

 紗枝は首を捻ったが、ほどなく声を漏らした。「今朝の話ね。スッカリ忘れてた。というかそれで逃げ出したの?」

「紗枝ちゃんから話してきたくせに」

「だからゴメンって。名前はホントたまたまだよ。それにあんなのはただの作り話。現実にそんなことありえっこないって」

 若葉の薄紅色の唇がさらに尖る。そんなことはわかっている。でも怖いものは怖いんだと、内心で呟いた。

 その不満はいとも簡単に紛れた。彼女の鼻をジューシーで香ばしい匂いがくすぐったからだ。

 二人は根本精肉店に到着した。小規模ながらも、このハナサカ商店街で古くから親しまれている店だ。メンチカツを筆頭とする惣菜と精肉が多くの客を引き寄せる。

「あらー、紗枝ちゃんと若葉ちゃんじゃない。お帰りなさい」

 ショーケース越しに立つ中年女性が言った。おかめ顔の、誰が見ても精肉店の店員だと納得する恰幅のよさと愛嬌のある女性だ。

「ただいま。おばちゃん、メンチカツふたつと、小判コロッケひとつください」

「あいよ、いつものね。もうすぐ揚げたてができるから、もうちょっと待っててくれる?」

「やったー! ありがとー!」

「ありがとうございます」

 ふくよかな女性の細い目がさらに細くなった。「バアちゃん、『にーコロいち』ね」

「あいよー」

 店の奥にいた、白髪の老婆がのんびりと返事をした。腰が曲ってはいるものの、二台あるフライヤーに同時に網を入れる手さばきは正確かつ迅速だった。ほどなく、ひと口では食べきれないほど大きなメンチカツと小判型のコロッケがバットに上がった。それらをふくよかな女が手早く袋詰めした。

「はーい、お待ちどうさま。メンチカツふたつとコロッケひとつね。熱いから気をつけてね」

「ありがとー」

 会計を済ませていた紗枝はふくよかな女性からふたつの紙袋を受け取った。その一方を、店先のベンチに腰掛けていた若葉に渡す。

「いただきまーす」「いただきまーす」

 若葉と紗枝はそれぞれに惣菜にかぶりついた。若葉はジューシーな牛肉の旨味と溢れんばかりの肉汁を、紗枝はジャガイモの優しい甘味とネットリしつつもホクホした食感を堪能する。

「あぁ、何回食べてもホントおいしー」

「ねぇ。いくらでも食べられちゃいそう」

「若葉んちのゴハンもおいしいのに、ふたつも食べて大丈夫?」

「大丈夫。根本さんのメンチは別腹だもん」

「ふふ、いつもありがとね」

 ふくよかな女性が店から出てきて言った。その手には小さな紙袋をふたつ持っていた。

「これ、入学祝のヒレカツ。食べて頂戴ね」

「わあっ! おばちゃん、ありがとー!」

「ありがとうございます!」

 満面の笑みを浮かべて袋を受け取った二人を見て、ふくよかな女性の笑い皺がより深くなった。

「実は私とバアちゃんも櫻神のOGなんだよ」

「えっ、そうだったんですか?」若葉は声を高くした。

「そうだよ」店先から顔を出していた白髪の老婆は言った。「今はこんなヨボヨボなアタシにも、若葉ちゃんみたいに若くて可愛い頃があったんだから」

 若葉も紗枝も笑みを浮かべながら相づちを打った。

「二人とも、真に受けなくていいからね。そこまで可愛かったなら、こんなところで肉屋開いてないわよ」

「色々あったのよ。少なくとも、あんたの十倍は可愛かったわよ」

「ひどーい、実の娘に向かって!」

 根本親子のやり取りを楽しく眺めながら、二人は熱々のメンチカツに舌鼓を打った。

 ふと、白髪の老婆が声を漏らした。「そう言えば若葉ちゃん、今朝は大丈夫だったの?」

「えっ、今朝ですか?」ふたつめのメンチカツ食べながら若葉は聞き返す。

「ほら、道の真ん中で石みたいに丸くなってたでしょ。チラッとしか見えなかったけど、お腹でも痛かったんじゃないの?」

 若葉はメンチカツを落としそうになった。「あ、あれは、その――!」

「大丈夫ですよ、怖い話聞いて動けなくなっちゃっただけですから」

「紗枝ちゃん!」

 紗枝は小さく舌を出した。

「あらあら、そうだったの」白髪の老婆は朗らかに笑った。

「怖い話ってどんなの?」ふくよかな女性が尋ねる。

「櫻神学園の七不思議のミナト桜です。知ってます?」

「あぁ、あったあった! 確か――」

「あら、金城さん、いらっしゃい」

 白髪の老婆が声を張った。店の前には、幼い少年を連れた若い女性が買い物袋を片手に足を止めていた。

「こんばんは。合挽き肉ってまだあります?」

「はい、ございますよ」

 そう言ってふくよかな女性に目配せを送る。すぐさまそれに気づき、ふくよかな女性は速やかに店内に戻った。その後若い女性に続いて、惣菜や精肉を購入する客が途切れなかった。

「そろそろ行こっか」

「そうだね」

 若葉は大きな口で残りのメンチカツをすべて頬張った。

「ご馳走さまでしたー」

「はーい、ありがとうねー」

 白髪の老婆は笑顔で二人を見送った。若葉は手を振り返すと、ためらうことなくヒレカツを口に運ぶ。


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