【長編小説】陽炎、稲妻、月の影 #16
第3話 死神の見識――(3)
結界の補強作業を始めて、一週間が経過した。
進捗は順調だが、如何せん校舎の構造の複雑さと、アサカゲさんがそれに充てられる時間が限られていることもあって、まだまだ終わりは見えそうにない。
しかし、ひとつ変化もあった。
これまで俺を視るなりぎょっとした顔を浮かべていた生徒の数が、徐々に少なくなってきたのである。
授業時間中に意識が浮上したときは、俺一人で校内を巡回しているのだが。この時期はまだエアコンが稼働しておらず、廊下側の窓を開けている教室が多く、授業中だけれど集中力を欠いた生徒が、廊下に居る俺に気づき、ひらひらと手を振ってくることもあった。
いくら膝から下が透けていて浮遊している幽霊だろうと、ときが経つにつれ見慣れていったことが理由らしい。害がなければ、幽霊だろうと日常に溶け込めてしまうのは、流石は境山高校と言うほかない。
「あ、君っていつも朝陰さんと一緒に居る幽霊だよね。名前は、ええと……」
「ろむ、だよ」
時刻は、六限目の始まりを告げるチャイムが間もなく鳴ろうとしている頃。
この日は遂に、一年生女子から声をかけられるに至った。
生徒から無害認定されたことは嬉しいが、まさか生きている人間とほどんど差異なく話しかけてくる生徒が出てくるとは予想だにしておらず、内心どぎまぎである。いやさ、とっくに死んでるから、早まる鼓動もなにもないんだけれど。
「そうそう、ろむ君だ。あのさ、ろむ君ってこの学校に詳しいんでしょ? 次の授業が第三特別教室棟にある第二視聴覚室なんだけど、どうやって行けば良いのか、教えてくれない? あたし、今絶賛迷子中なんだ」
「良いよ。校内図は持ってる?」
「もっちろん!」
境山高校の生徒なら、九割九分九厘の確率で校内図を携帯している。これを丁寧に読み解けば迷子になることも少なくなるのだが、新生活が始まったばかりの一年生にそれを強いるのは酷というものだ。
俺は女子生徒が取り出した校内図を基に、具体的な目印を踏まえながら目的地までの道順を教えていく。
「……それで、この廊下を少し歩いていくと、左手に青色の階段があるから、それを上って、ふたつめの教室を左に曲がれば――」
『ろむ! お前今どこに居る?!』
説明の途中、リストバンドから声がした。
「――アサカゲさん? どうしたの?」
女子生徒に、ごめんね、と謝罪の意を込めて左手を縦に振りながら、聞こえた声に応答する。
「俺は第一特別教室棟の二階に居るけど、なに、急用?」
『ああ、急ぎ合流したい』
「わかった。ただ、ちょっとだけ待ってくれる? 今、他の子に道案内してるところで――」
言いながら、女子生徒に視線を送る。
俺が視えているということは、このリストバンドを介した会話も彼女には全て聞こえていたのだろう。果たして、女子生徒の表情は、すっかり引きつってしまっていた。
「ろ、ろむ君、教えてくれてありがとね! もう大丈夫だから、あたし行くわっ!」
言うが早いが、女子生徒は足早に去ってしまった。あれは完全に、アサカゲさんを避けての行動だろう。
「え、ああ、うん。授業、頑張ってね」
その背中に、俺はそれだけ言葉を送った。女子生徒は軽く上半身を捻ってこちらを向くと、ぐっと親指を立てて答えてくれた。
悪意もない。敵意もない。
あれは、この間のユウキさんと同じように、勘違いから怖がっているだけに過ぎない。
どうにかしてその勘違いを正せないものかと、思案を巡らしかけたのだが、
『ろむ?』
と、アサカゲさんの呼びかけに、はっと我に帰る。
「ああ、アサカゲさん? 道案内は終わったから、すぐ合流するよ。今どの辺?」
『同じ校舎の一階なんだが……どこだ、ここ』
「近くにはなんの教室がある?」
『被服室、だな』
「ああ、それなら――」
アサカゲさんの現在地を聞いて、俺はすぐに行動に出る。
少し勢いをつけて、床に頭から突っ込む。すぐに一階廊下の景色が現れ、予想通り、そこにアサカゲさんの姿も見つけた。
「――あ、やっぱりここに居た。お待たせ~」
身体が全て一階へ通り抜けてから、くるりと回って、逆さになっていた視界を元に戻す。
アサカゲさんはこういった幽霊の登場の仕方は日常茶飯事なのか、顔色ひとつ変えていない。
「おう。早速だけど、第一図書室まで案内してくれるか」
「良いけど、アサカゲさん、授業は?」
俺がそう尋ねた瞬間、六限目開始を告げるチャイムが鳴った。
「萩森先生が合流したら、授業に出るさ。図書室の先生から、突然本が飛び回り始めて大変だから至急助けて欲しいって言われたから、今はそっちが優先だ」
なるほど確かに、それは現場に急行しなければどうしようもない。
「おっけー。ねえアサカゲさん、俺、最近ちょっと足が早くなったんだよ。ついてこれるかな?」
「はん、すり抜けて移動されなきゃ、お前の移動速度なんてオレより遅いじゃねえか」
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