【長編小説】リトライ;リバース;リサイクル #1
プロローグ
「――っが、は!」
それまで水中に身を潜めていたかのように、生を求め、肺に大量の空気を取り入れるようにして、俺は目を覚ました。
……目を覚ました?
ということは、今の今まで俺は眠っていたということになる。
眠っていた?
俺が?
いつ、どうして?
どうにも記憶が定かではない。ぼんやりするというよりかは、全くの無と言ったほうが適当だ。得体の知れない気味悪さが、俺の内側に巣食う。いや違う、きっと意識が混濁している所為だ。そうに決まってる。
自身に言い聞かせつつ、身体を起こす。
いやに関節が軋んだ気がするが、俺は一体どれくらいの間、こんな寒空の下で寝転がっていたのだろう。正気の沙汰とは思えない。
少しでも状況把握に努めようと、ふと上に目を向ける。
するとそこには、ただただ高い壁ばかりがそびえ立っていた。どうやらここは、雑居ビルの密集する地域であるらしい。これだけ壁しか見当たらない辺り、ここは路地裏の、さらにその裏と言ったところか。
こんな薄気味悪い場所を訪れる酔狂な人間は、そう多くない。
それなら、どうして俺はここに居る?
その答えは、後ろの正面にこそあった。
「――っ、うわああああ!」
思わず叫び、後ずさる。情けない叫声が路地裏に反響した。
そこにあったのは、死体の山だった。
死体、死体、死体、死体、死体、死体、死体、死体、死体、死体、死体、死体、死体、死体、死体――およそ十五の死体で作られた小山。薄暗いこんな場所でも、絶命した人間が折り重なっていることは、はっきりと見て取れた。
さらに目を凝らして見ると、壁には銃痕や切創が刻まれており、その上からは、まるでこれが芸術だとでも言いたげに、おびただしいまでの血飛沫で彩られている。
そしてこれは正視しにくい現実だが、俺の着ているそこそこ上等そうなスーツまでもが真っ赤に濡れていた。一体どれほどの返り血を浴びれば、黒が赤に染まるのか。
ここで想像を絶するほど惨たらしい殺し合いが起きていたのは疑いようがない。
問題は、どうしてそんな場所で俺一人だけが生きているのか――否、着眼すべきはそこではない。いの一番に考えるべきは、どうして俺の右手に拳銃が握られているのか、である。唯一の生存者が拳銃を握っているのなら、そいつがその惨劇の犯人で間違いない。つまり、俺だ。
「ふざけんなよ……」
こいつらを殺した記憶どころか、自分の記憶すら怪しいってのに。
「あ」
この最悪な状況に悪態をついていると、少し離れたところからそんな声が転がってきた。ついうっかり漏れてしまったような、女の声だった。
「――っ」
その声に、俺の心臓は痛いくらいに跳ね上がる。
誰かがそこに居る。
誰かがこの現場を目撃してしまった。
冷や汗が頬を伝う。
女を殺すか、この場から逃げるか。
身の安全を守る為、即座に思いついたのはその二択。
しかしどうしてだろう、見えない糸で雁字搦めにされたように、身体の自由がきかない。拳銃の引き金を引く為の、ほんの指一本でさえも。
「……」
「……」
女の姿は見えない。見事にこの暗闇に紛れてしまっている。しかしどうやら、この状況を検分しているようだった。
死体の山を見、血まみれの俺を見、壁に描かれた惨状の爪痕を見る。
身動きの取れない俺は、ただただその観察が終わるのを待つしかなかった。その観察はほんの一瞬のものだったのかもしれないが、俺にとっては永遠よりもはるかに長い時間に感じられた。
「お前が、そうなのか」
殺意を放つ目と目が合って、ばちりと火花が散ったような、奇妙な錯覚に陥る。
瞬間、口元の筋肉がひくりと震えたのがわかった。
身体中を、歓喜の渦が駆け抜ける。
誰かれ構わず抱きつきたい衝動に駆られる。
「――宇田川社警護部特殊警護課〝K〟班班長、清風」
抑揚のない声で、女は淡々と名乗りを上げる。
お前も名乗れと、暗にも明にも言っているのだ。
しかし俺の口から言葉は出ない。やっと会えた、という歓喜の渦中にあって、そんな余裕はどこにもなかった。上限なしに舞い上がっていく感情は、けれどこの状況には不似合い過ぎて、我ながら恐怖を覚える。
「そう。それなら結構」
ため息交じりにそう言った直後――女の纏う雰囲気が一変した。
一帯の空気を痺れさせるような、真っ直ぐで鋭い殺気だ。
「やっと見つけた――殺人鬼!」
俺を殺人鬼と呼称した女は、一直線に距離を詰めてくる。
ようやく姿を見せた女に、俺は二重に驚かされることとなった。
ひとつは、その両手に握られていたものが、冗談みたいに大きな鎌だったという点。
決して草を刈るときに使うようなサイズのものではない。それは、死神を連想させるほどに現実離れした大きさの刃物だったのだ。こんな暗闇の中でもぎらりと不気味に光るそれは、『確実に殺される』という意識を持たせるには充分過ぎるほどの威力を発揮している。
そしてもうひとつは、そんな気味の悪い大鎌を両手に握る女の正体が、年端もいかない少女であったという点だ。
中学生、いや、高校生だろうか。その判別すらつかないような年齢の子どもが、こんな場所でこんな凄惨な現場を見て、逃げ出すどころか自ら名乗りを上げ、躊躇なく仕掛けてきたのだ。ぎょっとしないほうがおかしい。
「っ?!」
しかしそんな動揺も、次の一瞬で吹き飛んでしまう。
何故なら、死体の山のうちの一体がぴくりと動き始めたのである。見間違いなんかじゃない、一人、殺し損ねた奴がいたのだ。そいつは、右手に持っていたナイフを強く握り直す。少女はそれに気づいていない。俺をめがけて真っ直ぐに切りつけるつもりだ。今の彼女には、それしか頭にない。
どうすべきか。
それは考えるまでもなく簡単なことで、このままそいつに少女を刺させてしまえば良い。俺なら上手く二人を誘導し、自滅させられる自信があった。少女を足止めできれば、俺だってこの場を離れやすくなる。逃げてしまえればこっちのものだ。
だというのに。
「――くっそ!」
気がつけば、俺は少女に向かって走り出していた。
持っていた拳銃は、邪魔だから投げ捨てた。弾の入っていない拳銃なんて、ただの鉄屑だ。そんなものを持っていたって、少女を護れやしない。
「えっ? な……!?」
少女は目を白黒させ、言葉にもならない音を吐いた。しかしそんな反応を取ってしまうのも無理のない話である。向こうからすれば、今まさに殺そうとしている相手が、自ら武器を捨てて単身突っ込んできたのだから。
「大丈夫。君は俺が護るから」
落ち着かせるようにそう言って、俺は少女の持つ大鎌の柄に手を掛ける。勢いをそのまま横に流すと、案の定、少女はバランスを崩した。前に倒れ込みそうになる少女を片手で受け止め、そのまま抱え込むかたちで凶刃から護ることに成功する。
「いってぇ……!!」
結果、俺の背中が斜めに切りつけられる羽目になった。
気絶しそうなくらい痛かったが、まだだ。まだ気絶するわけにはいかない。痛みを堪えて少女からそっと手を離し、振り向きざまにナイフを奪って、その喉元を横一文字に切り裂く。するとそいつは口をぱくぱくさせ、背中から倒れた。少しあって、その息の根も止まる。殺せたと確信した瞬間、すっと足の力が抜けて、俺の身体は前のめりに倒れ込んだ。
「なんで……?」
少女はよろよろと俺に近寄り、本当に不思議だと言いたげに尋ねる。
「どうして助けたの……?」
少女のすぐ側に、あの大鎌は転がっている。少女がその気になれば、今の俺を殺すのなんて、赤子の手を捻るより容易いだろう。そうでなくとも、このまま寒空の下に放置されれば失血死だ。どの道、もう助からない。
「ただの気まぐれ。護りたいって思ったから、護っただけ」
だから俺は、思ったままを答えた。
明確な殺意と共に切りかかって来た少女を助けたことに、不思議と後悔の念はなかった。やるべきことはやったという謎の達成感すらある。
「……そう。それなら――」
俺の意識が保てたのは、ここまでだった。
世界が暗転する直前に見たのは、拳銃のようなものをこちらに向けた少女の姿だった。