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【長編小説】陽炎、稲妻、月の影 #4

第2話 延長線上の哀歌――(2)

 旧校舎は、学校創立当初から十数年ほど使われていた建物だ。それが時代の流れと共に生徒数が増加し、新校舎が敷地内に乱立したことで、徐々に人が立ち入る機会が少なくなっていった。早々に取り壊されるかと思いきや、物置や文化部の臨時の活動場所として、今もなんだかんだ活用されている。
 くだんの音楽室も、吹奏楽部や軽音楽部が稀に使用しており、ピアノだけは定期的に調律を行っていたはずだ。だから、教員から使用許可を得られれば、鍵を受け取ってピアノを弾きに来ることもできるだろう。けれど、それが旧校舎の音楽室でなければならない理由がわからない。音楽室も設備も、第一特別教室棟にいくつかある音楽室のほうが新しくて良いものだろうに。
 考察を深めながら、俺は男子生徒の後を追った。
 そう時間を空けずに追いかけてきたはずだが、既にその後ろ姿は遠い。彼が俺のことを視えるのかわからない以上、全速力を出して彼の前に飛び出すわけにもいかない。付かず離れずの一定距離を保ちながら行き着いた先は、予想通りというべきか、音楽室だった。
 男子生徒が音楽室へ入ったのを確認してから、俺もそろそろと気配を消して歩み寄る。
 と。
 ほどなくして、音楽室からピアノの音色が響いてきた。
 ウォーミングアップのような音階もほどほどに、演奏が始まる。少したどたどしい弾きかただが、これは『きらきら星』――いや、正しくは『きらきら星変奏曲』か。モーツァルトによる作曲で、全部で十数分ほどの長さになる曲のはずだ。
 生前の記憶はちっとも取り戻せないくせに、何故かこういう知識だけは豊富だよなあ、なんて心の中で毒づきつつ、念の為、ピアノを弾いている男子生徒の死角となる方向に回り込んでから、するりと壁を通り抜けて、音楽室に入る。
「え」
 驚きのあまり、思わず声が漏れてしまった。
 男子生徒が入室して間もなくピアノの音が聞こえてきた以上、中には一人だけだと思っていたのに。
 ピアノを弾き続けている男子生徒の、その背後。
 そこには、女子生徒の幽霊が立っていたのだ。
 俺が彼女を幽霊と即座に判別できた理由は至極単純、男子生徒と比べると、その姿が透けて見えたからだ。
 男子生徒は相変わらず、ピアノを弾いている。俺には気づいていないらしい。
 だが、女子生徒のほうは俺の声に反応し、こちらを向いた。
 刹那、尋常でない緊張感が全身を駆け抜ける。これは、女子生徒からの敵意と警戒の圧だ。軽率だったと後悔するには、あまりに遅過ぎた。今からでもアサカゲさんを呼ぶべきかどうか逡巡し動けないでいる俺を、女子生徒はじっと観察するように見つめてくる。
 体感時間では五分を超えそうな時間、じっと見つめ、そして。
 なにか納得したように、その真一文字に結んだ口元を僅かに綻ばせた。よくわからないが、どうやら警戒を解いてくれたらしい。
 俺がほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、女子生徒はちらりと視線を男子生徒に遣ったあと、再び視線を俺に戻し、右手の人差し指を自身の唇の前に置いた。恐らく、演奏が終わるまで静かに待っていてくれたら俺と話をしてくれる、という意思表示だろう。俺はそれに頷いて見せ、一旦この場を離れる旨を身振り手振りで伝え、廊下に出た。
「アサカゲさん、聞こえる?」
 今のうちに一度状況報告をしておこうと、リストバンドに向かって声をかけた。すると、リストバンドが微かに発光し始めたではないか。光るだなんて聞いてない、とあたふたしていると、
『聞こえてる。状況はどんな感じだ?』
と、リストバンドからアサカゲさんの声が返ってきた。
 俺はアサカゲさんに簡単に状況を説明し、もう少し待つことになりそうだという旨を伝える。
「危険性はなさそうだから、話を聞くくらいなら、俺一人でも大丈夫そうだと思うけど。どうする? アサカゲさん」
『どうするって、なにが』
「いや、今日はもう帰るかなって」
『帰るかよ、ばーか』
 小さいため息が、リストバンドの向こうから聞こえてくる。
『オレも近くまで行く。ろむ、近くにオレが待機してても大丈夫そうな場所はあるか?』
 そう問われ、周囲を見回す。
 音楽室のある四階で、適当な空き教室へ案内することもできそうだけれど。万が一、今音楽室に居る男子生徒が帰るときに、どこかで鉢合わせになってしまう可能性も否めない。であれば、他には――
「今アサカゲさんの居る場所から、ぐるっと反対側に回ったところに非常階段があると思うんだけど。そこから四階まで上がってきて、外で待つことってできる?」
『反対側? ……ああ、大丈夫だと思う』
 移動する物音がややあってから、アサカゲさんは言う。
『オレはマスターキーを持ってるから、ろむの合図でそっちに合流する』
「おっけー」
 アサカゲさんとの会話が終了すると、リストバンドの発光も収束していった。アサカゲさん側で通話のオンオフとかしているのだろうか。
 右手首に巻かれたそれを眺める後ろからは、今も『きらきら星変奏曲』の旋律が聞こえてくる。

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