報酬と選択 アクションとオープンワールドの違い
この話の発端は、今年発売予定の国家運営シミュレーションゲーム『Vicoria 3』の開発日記からです。
『Victoria 3』の開発日記ですが、対象はこちらです。
「Victoria 3」開発日記#34――運河とモニュメント
Victoria 3はタイトルが示すように、ヴィクトリア朝、正確には19~20世紀初頭を舞台とした国家運営シミュレーションです。歴史にご興味があれば大体想像がつきますが、国家の威信を賭けた争いやプロジェクトが特に多く行われた時期です。スエズ運河やエッフェル塔、パナマ運河…様々な工学的偉業も成し遂げられました。
それ自体をゲームに反映させるのは普通です。が、この開発日記は閲覧者から批判の声が寄せられました。
それは一体どこなのか。
影響力だとか利益集団だとか、分からない概念が多いですが、その辺は無視してください。大事なのは、バチカン市やホワイトハウスが特別な効果を生み出すことです。それがこのような批判を呼びました。
何か一つの特殊なアイテムを入手したから国家に大きな影響を及ぼすのはおかしい。ということです。検討の結果、開発チームはモニュメントが特別な効果を生み出さないゲームルールを作りました。
この話はとても興味深いものでした。
これは、報酬を基調としたゲームでは検討すらされない概念だと。
あなたは〇〇を手に入れた!
ゲームをやっている際に、何か特別なアイテムを手に入れるとテンションが上がるでしょう。アイテムと言いますが、たとえばガチャで欲しいキャラがやってきた、早い者勝ちで欲しい物をゲットできたことも同じ。嬉しいことです。
そして同時にこう思う訳です。「失いたくない」と。例えば『ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド』の、武器に耐久力があり限界に達すると一部を除いて消滅するシステムは賛否両論です。
あるいはこうも思う訳です。「取り逃しはないか、何か忘れてるものはないか」と。対戦ゲームですとそうもいきませんが、たとえばゲームの攻略wikiでも取り返しのつかない要素をまとめたページは早々に作られます。ガチャも魅力的なキャラクターを生み出して、購買意欲を煽り立てます。いっぱいキャラを持っている、育てていることがステータス。そういう風潮は止めることが難しいです。
そんな文化が浸透する中、『Victoria 3』では「モニュメントとしてエッフェル塔やバチカン市や、ワイトハウスを作りました。でもゲームルールによっては大した効果を生み出しません。ちなみに建設に大きなコストと時間がかかります。」と言われる訳です。
え?と思わないでしょうか。折角作ったのに場合によっては大した効果がないと。開発チームは苦労に見合うだけの効果を用意したのに、逆にユーザーから批判される始末です。ユーザーが望んでいないのです。
私はVictoriaシリーズの長年のプレイヤーでもなんでもない、パラドゲー(Victoria 3はパラドックス社が開発していることからパラドゲーと呼ばれます)をちょこちょこと遊んでいるだけの者に過ぎませんが、この文化の違いをなんとか言語化できないか考えました。考えた結果、それがオープンワールドにも繋がるのではないかと思いました。
選択を繰り返して極める
シミュレーションゲームを考えてみると、このジャンルは選択の繰り返しです。政治がよりマシだと思う選択肢を取り続けるのと同じように、シミュレーションもまたその繰り返しです。勿論そこには目標があって、そこに進み続けるのですが、当然「捨てた選択」がある訳です。
例えば同じパラドゲーに『Crusader Kings 3』があります。こちらは名前のように中世欧州(+アフリカ、インド、中央アジア)を舞台とした王朝(≠国家)運営シミュレーションですが、ライフスタイルという概念があります。
これは人物の能力値によって得意とする能力を伸ばしていくものです。スキルやレベルみたいなものと言ってもいいでしょう。しかし、このゲームではライフスタイルのコンプリートなどまずできません。
軍事に特化したら外交は不得手になりますし、逆もまた然り。一人で何でもできる訳ではありません。
どれを取るか、捨てるかを繰り返して王朝を繫栄させていくのが『Crusader Kings 3』です。逆に選択と関係ないことで何かを得ることに対して、パラドゲーのプレイヤーは否定的です。先ほどのように〇〇を手に入れた!というのに真っ先に反対するのです。この辺は、『Imperator : Rome』、『Europa Universalis IV』の君主点システムを「マナ」と形容した件もそうですが、それ以上はやめておきます。
ともかく、このように選択を繰り返していくと舞台は反応していきます。プレイヤーが戦うと決めれば反抗し、交流しようと決めれば賛成する。逆に服従するかも知れないし、よからぬ企みをするかも知れない。
この反応もプレイヤーにとって一つの思い出になるのが、選択を繰り返して極めるゲームの特徴でもあります。
報酬を獲得して極める
逆にアクションやRPG、たとえば『ゼノブレイド3』(どうでもいいですが、3が続きますね)は時間をかければ強くなっていきます。まだ3話で止まっていますので、何とも言えませんが恐らく『ゼノブレイド2』のように深刻な取り返しのつかない要素というのはないでしょう。
ソーシャルゲーム、キャラゲー、アクションゲームもどちらかと言えばこの揃えて極める哲学がゲームの核にあると思います。ソーシャルゲームは先ほど言いましたが、アクションゲームでしたら操作に上手くなって素早く、美しくクリアしたりボスを倒したりすることが極める道の途上にあります。
同時に、獲得した報酬を「喪失」することはどうしてもマイナスな感情を引き起こします。唐突にすべての装備を失ったり、いつもの全力を引き出せる状態でなくなったり、地形で阻まれたり、あるいは稚拙なカメラ移動で操作がおぼつかなかったり…そのような状態にイライラするのは自然なことです。
オープンワールドはどっちか
ではもてはやされて早十数年のオープンワールドゲームはどっちか、正確にはどちらがより相応しいでしょうか。
私は「選択を繰り返して極める」だと思います。オープンワールドとして名高いのはベセスダ社が主に開発する『The Elder Scrolls』シリーズ、『Fallout』シリーズがあたりますが、基本的に目指す目標によって選択をしていきます。選択を迫られるクエストで報酬両取り…というのは想定されていません。
また、私だけかも知りませんがぶっちゃけメインクエストというのはあまり覚えていません。印象的なシーンは覚えていますが、たとえばナルフィの一連のクエストを行った時や「VIGILANT」を無事にクリアしてキルクリース湖を眺めた時、MODでバランスをミスって強くなり過ぎたガンナーの拠点で銃撃戦を繰り広げた時など、良い言い方では自分だけの思い出、悪い言い方では一緒にない思い出を沢山作っていくのがオープンワールドです。何か選択して、反応していく世界。そこに生きている自分に思い入れを持って行くのです。
この選択し極め、それに反応していく世界がオープンワールドの肝、と私は思っています。
アクションがオープンワールドと相容れない訳
そんなオープンワールドに元がアクション、揃えて極めるゲームは向かないと思っています。例えば、マリオ、カービィ、ソニックがそれにあたります。先ほども言いましたが、オープンワールドというのは選択し、それに反応していく世界が肝です。広さなどどうでもいい訳です。広さで語るなら『The Elder Scrolls II: Daggerfall』があります。
アクションは操作を極めて行きますが、つまり主人公には人間と比較すると異常な身体能力を持っている証左に当たります。カービィとソニックは分かりやすいですが、マリオもまた人間には到底不可能なジャンプアクションを軽快に、華麗にこなします。
では、このような"異常な"アクションを繰り広げる彼らに対し、世界はどう反応すればいいのでしょうか? 我々は人間をベースとした世界を構築することはできても、完全な空想世界をベースとした反応する世界の構築は難しいのです。可能なのでしょうが、現実にメリットがないのです。人間をベースとした世界を作ることは人類社会の発展という言い訳がいくらでもできますが、マリオやカービィ、ソニックが縦横無尽に動く世界を作ることに我々人類社会に何のメリットがあるのか。
つまんないこというなと思います(私もそういう風潮には中指を突き立てたいです)が、発展する可能性が難しいのですから優先度はどうあがいても低くなるのです。
ここまでをまとめると「オープンワールドには選択して、反応する世界が必要。しかし、アクションゲームの主人公には異常な身体能力がある。それらが当たり前の社会を構築することには莫大なコストがかかる。そのコストをかけられるほどの意味が生まれないし、あったとしても優先順位は大幅に低くなる」となります。
(省いてしまいましたが、選択を繰り返すには言語によるコミュニケーションが必要です。そこでヒーロー的な彼らが選択を繰り返すのは難しい話です。毎シリーズ基本は別人で記憶喪失にもなったブレスオブザワイルドのリンクははっちゃけても問題ないですが、同一人物のマリオにやらせるのは難しいです。ソニックやカービィもそうでしょう。ポップスターにやってくる前の旅人のカービィなら…?)
側だけでなく概念も取り込んだブレスオブザワイルド
そのような視点では、武器に耐久力があり、雷で金属製の武器が使いづらくなったり、雨でよじ登れなくなったりする要素というのは、必ずしも最適解がある訳ではなく、その時々の状況で武器を、経路を選択するという意味が込められていると感じます。
ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルドはオープンワールドゲームとして名高いですが、初代という伝説がありながらも現代のオープンワールドの哲学というのをしっかり学び、取り込んでいるとも考えられます。と言いますか、取り込んで自らの作品に反映させられているのが恐ろしいです。
報酬と選択
さて、ここまで見てきましたが、個人的に報酬を獲得して極めるゲームと、選択を繰り返して極めるゲームはかなり、いや下手すれば相当の断絶があるように感じました。選択というのは時間の無駄です。さっさと攻略wikiでもなんでも、それこそPCゲームならファイルを覗いて条件と効果を確認してもいいでしょう。ですが、それを「選択」文化の人が聞いたらブチ切れ間違いなしです。最悪の敵認定もありえます。逆もまた然り、報酬を獲得して極めるなどソシャゲみたいでバカみたいと「報酬」文化の人が言われたら、縁を切るでしょう。
そんな個人的に思ったことを適当に書き記しておきます。ちなみに、書き終わって気づきましたが、対戦ゲームは上手く当てはまらなかったので無視しています。1人用ゲームにある文化の違いと思っていただければと。