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複数の言語を習得するということ
自分の母語が外国語だと見なされている場所にいると、疎外感を味わうことがしばしばあります。
グローバル化が進むにつれて、国籍の意味が年々薄くなっていくようにも感じますが、それでもやっぱりルーツはルーツとしてあって。
『ひとつの大きな(安定した)グループに加わって、言葉との間にズレを感じることなく生きたい』
そう願うことと、
『ルーツを知りたい。自分の先祖、言語について学びたい』
と願うこととは、何も矛盾していないように思います。
けれどその感覚が、私の中に大きな隔たりを生じさせたこともありました。
しかも私の場合、母国語だと見なしている韓国・朝鮮語も、おかしな訛りでたどたどしく自信も無かったので、逆にそっちを外国語と見なすこともありました。
どの文化にも所属感を持てないまま、それぞれ反対方向に離れていくふたつの流氷に片足ずつ乗せて、胸、もとい股が裂ける思いでした。
複数の言語を行ったり来たりするうちに、どんどん自我同一性が不安定になるような気さえしました。
今だから言えることですが、あの、揺れに揺れ、流され続けた時期が現在の私のアイデンティティの基礎を形成しているのではないかと思います。
ひとつの言語を習得するということは、ただ文法や発音を学んだり、ネイティブと円滑にコミュニケーションを取れるようになるだけのことではないと思っています。
なんというか、アイデンティティ総とっかえ?
いやちがうな……。
新しいアイデンティティの追加?更新?受容?
扱う言語が変わると、自分の立っている地面の地質が変わる感じ。
書いといて、意味不明だな、と一瞬思いましたが、言語はそもそも土地に根付くものだから、あながち的外れでもないかも知れません。
こっちの地面からあっちの地面へ、大人なら計画的に、安全性を保ったまま、辛抱強く、それでいて大胆にジャンプすることができる可能性があります。
でもまだ子どもだった私はなんのこっちゃわけの分からないまま、ふたつの地面を同時に踏もうと無茶をしていました。
けれどそれが出来るのって、まだ脳のハードディスク容量が多く、柔軟な子どもだったからのような気もします。
「三本の矢」
とは全くうまく言ったものです。
幼稚園年長からは英語もほぼ同時進行で学び始め、みっつの言語を習得するうちに徐々に地盤が固まっていったように思います。
もちろん、かなりの時間がかかりました。
実際に海外にも行ったし、目が燃えるんじゃないかってくらい単語帳に齧りつきもしました。
カルチャーショックなんて、もう数えきれないほど経験しました。もはや日常的にショッキング。
そんなときは、他のふたつの言語に逃げるんです。それで安定を取り戻す。
その繰り返しでした。
もっと計画性を持って、地道にやれば良かったとも思う一方、飽き性で投げやりでガサツな性格の私には、やや強引でもあの方法が合っていたのかもなぁ。とも思います。
何が言いたいかというと、言語は文化そのものであって、人間が創り出した最も素晴らしい発明品だということです。
言語野はきっと心の奥深く、自分でも把握できていない部分とも繋がっていて、だから言葉の地盤が揺らぐと自分も揺らぐ。
人格形成、精神形成に欠かせない重要な部品。
後世に、ひとつでも多く残したい大切で尊い財産。
しかし残念なことに、戦争や紛争で国や民族が消滅されるごとに、言語も葬られます。
悲しすぎる事実です。
言葉を必死で守って繋いでくれた先人たち。
それを習得し次に繋げて、ひとつでも多く残すことが、私たちに出来るせめてもの恩返しなのかも知れません。