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Photo by
murasaki_kairo
ジャスティス・トラップ(正義の罠)
発言の内容と振る舞いは「正しい」けれども、その通りでは決して「結果」は出ない。こういう事案は少なくない。
教科書的な原則に照らし合わせると正しい。むしろ強烈に正しく、正論である。だから、反論には一工夫が必要で、厄介。ゆえに、局面を正しさで押し流してしまうことが多い。正義は勝つ。
ところが、正しさが常に結果を呼び込むわけではない。言っていることも、行いも正しいのに?
「正しいからやらなければならない」は簡単に口にはできるが、「正しいからできる」わけではない。「相手やチームができるかどうか分からないけども、とにかく一方的に正しさをぶつける」のは、助言でも何でもない、ただの暴力だ。
あるいは、「相手やチームができるかどうか考えていないけど、とにかく指摘しているだけ」だとしたら、迷惑でしかない。ましてやチームメンバーではなく、それ相応の権威や専門性を背負っている立場だとしたら、またそのことを無自覚だったりしたら、恐怖だ。
ということが、専門家とチームの間だけではなく、一個人の中でも起きることがある。自分で自分に「正しさ」を強制し、そして「結果」が出せずに苦しむ。正しさの虜とでも言うべきか。
これを、ジャスティス・トラップと呼ぼう。使い方は「このチームでその取り組みはまだ難しいです。"ジャスティス・トラップ"に陥りそうです。」とか「実際のところ、彼にはまだ受け止められないのではないか。"ジャスティス・トラップ"な感じがする」
正しい知識は必要だ。だが、チームにせよ、個人にせよ、正しくあるためには、段階が必要になることが多い。「正しいから明日からできる」わけではない。正しさを貫くためには、相応の力が必要だ。自ら罠にはまりにいってどこにも行けない、なんて無いように。