「小さく始める」の罠
「小さく始めよう」という誘い文句が以前に比べると、ごく当たり前のように使われるようになってきた感がある。「小さく始める」はようやく市民権を得られるに至った。世代交代が進んでいるからだろうと思う。
ところで、小さく始めるのは何のため?
文脈によってその意図は異なるだろう。いくつかあげてみよう。
・はやく学ぶ
あらかじめの計画づくりをいくら精緻にしようとしたところで、その効果が期待できない。複雑な問題や状況のため分かっていない、知らないことが多い。そのような場合には、まず取り掛かることで情報を得る。あるいは一旦の結果からはやい学びを得る。
・はやく改善する
いきなりハイクオリティな結果を生み出すことが難しい場合に、まずは小さくはじめて、短い時間で、結果まで一巡させる。課題の要所を捉えてから、はやい改善で必要なクオリティを目指す。
・準備のオーバーヘッドを小さくする
まともに必要と思しき準備を完璧にこなしてからやろうとすると、はじめるまで多大な時間がかかってしまう。先の項のように、学ぶこと、改善することのほうが、準備に基づく成果よりも効果が期待できる場合に、はじめてしまうことのほうを優先する。
・リスクを小さくする
大量、広範囲を一気に取り組むとリスクが大きくなる。大きく仕掛けることで失敗したときの影響が広く、深くなってしまう。そうしたリスクを避けるために、小さく始める。
・意図的に実験する
「情報が足りないからやってみて学ぶ」よりはもう少し意図的に学ぶことを選ぶ。何を知ればよいのか、どうやると効率的に学べるのか、学びの計画づくりを小さく経て、実験・検証による学びを早期に得る。
という具合に、「小さく始める」には、何らかの意図がある。「小さく始める」というのは意図を果たすための方法の一つである。何でもいいから小さく始めよ、という教えではない。
何が分かっていて、何が分からないのか。「始めること」が「わかること」に繋がるのか? 無目的にやっているだけで単にタスクが増えることにならないか?
計画・準備に実際のところどのくらいのコストがかかりそうか想像をしてみたか? そうしたコストを犠牲にするほうが分は良くなるのか?
「実現したいこと」と「手数を増やす作戦」は一致しているのか? 「とりあえずやれそうなことをやる」は初期の作戦としては良いかもしれないが、それをいつまでも続けることが本当に突破口になるのか?
つまり、小さく始めるとは、考えずに始める、ということではない。どうするとよいか考えてみる。考えてみるが、その考えるという時間を永遠のように費やすのではなく、始めた方が得策である、というところで実行に転じる。このくらいの適応力を備えるところから始めよう。