5年ジャーニー
1年がまた巡り、もっとも長いタイムボックスの「ふりかえり」を迎える。1年のタイムボックスであり、同時に1年ずつ加算されていく「これまで」のふりかえりでもなる。今年は45年分。残すところ、5年。
この数年、「DX」を切り口として日本の数々の組織に関係してきた。ときにそれは深い深い洞窟を降り進んでいるようでもあった。「組織とは何か」「その組織は何か」という問いに答えるためのいわば探検なのだ。
いけどもいけども、「突破口」というべき分かりやすいものが見つかることはない。ゲームならば、ダンジョンを深く降りたところにはラスボスが存在する。悪の権化であり、ゲーム中最強のかたき。これを倒せば終わり。終わりを務めるだけに強大で手強く、そのためにプレイヤーは研鑽を重ねばならない。ただ、十分に修練すれば必ずラスボスも倒せる。
ということが、組織の場合にはあてはまらない。
組織のいまここの状態を作り出した "ラスボス" など存在しない。"倒せば終わり" といった要因が分かりやすく存在するわけではない。組織の地下深く降り進んで分かったことは「何もない」ということだ。
いや何も無いことはない。ただあるのは、従前より続く日々の営みだ。多くの人たちが従前より存在し、受け継がれてきた期待を果たすために役割、立ち位置を務める。そこにそれぞれの多少の思惑をのせて。ただそれだけだ。それの何が悪い? 何も悪いことではない。だから変わることも無い。
考えみれば、組織とは地層のように数十年のときをかけて営みを重ねてきたわけだ。今ここに至った現状とは、幾度もの「変化」の上に成り立っている。その因果関係を遡り切ることなどできない。クネビンフレームワークでいえば「Complex (複雑)」であって「Complicated (煩雑)」ではないということだ。因果を分析しても解を引き出すことができない。
組織は「機械」ではない。部品まで分解して、悪いところを直して、組み直せばよく動く、という理屈ではない。なぜなら、組織とはモノや情報、ツールやプロセス、計画や戦略だけではなく、「人」で実現しているから。人自体が複雑系なのだから、組織もそうなる。
ここまで考えると、逆に、「手がかり」は見えてくる。因果関係が見極められないものを望ましい状態へと誘うには、幾度となく変化を与えていく他ない。
ゴールに向けた手筋が見えているわけではない。出来ることは、向かいたい方向へとおそらく近づいているだろうという感覚の下、漸次的に変化を作り出すことだ。それは、日々の仕事におけるやり方のことであり、組織の中の人と人との関係におけることであり、半年1年の単位で立てている計画にこれまでとは異なる挑戦を小さくとも織り込むことでもある。
何かしらの働きかけ、動きの変化がその後どうなるか、どうなっていくかを見る。そこからまた次の動き方を決めていく。どうも向かいたい方向に近づいていない気がする、ならばやはり動き方自体を変える。ふりかえりと、むきなおり。やはり、ここに辿り着く。
いつもの「ふりかえり」と「むきなおり」の話に一つ付け加えよう。この作戦には、「自分に流れる時間」の観点がない。この変化のジャーニーを、いつまで続けていくのか。自分自身としての視点から捉え直すためには、別のタイムボックスが必要だ。自分自身の「ふりかえり」と「むきなおり」。
ときに日々の営みから立ち止まり、自分のための時間を作る。そんなときを私もまた迎えている。