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 アジャイルをプロセスとして当てはめようとしている限り、馴染む馴染まないの話が出てくる

 「業界・業務によっては "アジャイル" が馴染まないところがある。」そうした意見をしばしば聞くことがある。

 「そういうケースもある、そしてそのケースに自分が背負っている領域はあてはまる、だから現状がアジャイルでないことはやむを得ない」というexcuseへの同意を求められる場合もあるし、真にそう考えておられる場合もある。気持ちは分かる。

 確かに、ほぼゼロベース近くまでに立ち返り、前提を揺さぶらなければならない場合もある。現場だけで意志決定できるものではなく、実質組織としての方向性まで問い直さなければならないとしたら無理もない。

 それでもなお、いくつかの組織に関与していて、たどり着いてるところがある。アジャイルが必要ではない組織などない。

 「アジャイルが馴染む、適用できない」という話の多くの場合は、その前提として「プロセス」が対象となっている。「プロセス」は、どのように仕事を進め、組織として成果をあげていくか、という共通認識であり、互いの約束になっている。その前提に則り、ヒト、モノ、カネのあり方を最適化し、効率性を高め続けていくことが現代組織の礎石にあたる。

 組織プロセスとしてどうあるべきか、その判断基準が「効率への最適化」一辺倒となっているところに、そもそもの現代組織の課題がある。「プロセス」自体も組織活動のアウトプットの一つであり、「永遠の前提」ではなく、問い直す対象となって然るべきだ。

 アジャイルをプロセスのフレームワークとして見立て、目の前の組織プロセスに当てはめようとしている限り、馴染む馴染まないの話が出てくる。
 そうではなく。組織を取り巻く状況や環境、自分たち自身で捉える「ありたさ」によって、組織の判断や行動を決して行く、その際の手がかり、模索の選択肢としてアジャイルを見做すならば、「アジャイルが必要ではない組織」などない。

 そして、それは「組織」だけではなく、「個人」にも言えることだ。個々人の、手元の仕事のプロセスとしてきっちりとしたアジャイルではないとしても、本質はそこにあるのではない。
 どう意思決定していくか、まずその場面において、探索と適応の度合いがどの程度あるかだ。意思決定と実際の行動プロセスとの間は徐々に近づいていき、やがて融け合った様式にもなりうる。

 組織にとって、個人にとっても、アジャイルを自分たちには関係ないものとして仕分けしてしまうことには、危うさを感じる。


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