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アウトプットによる学びと、インプットによる学び

インプットよりアウトプットの方が学びがある?

 2018年の年末から5月1日まで書籍を書いていた。最初の書き上げは3月いっぱいくらい、その後はひたすら推敲。制作過程はモーメントにまとめてきた。

 本を作り出すとアウトプット偏重になる。本を読むのが好きだったのだけど、本作り中は封印。文字を読むのではなく、文字をつくり出すのに振り切ってきた。

 終わってみて、また好きな本読みを始めようとしたのだけど、5-6冊読んでみてどうもしっくりこない。なんかこう、ガツンガツンくる学びが無いというか。本を書いているとき(アウトプット)のほうが学びがある感覚。

 そうした中で読んだ本の中に「コルブの経験学習モデル」というのがあって、腑に落ちた。こういうモデルだ。

 どこかで一度は見かけている図であるはずなのだが、こちらの状況が変わると捉え方が異なる。価値が生まれる。

読書をコルブの経験モデルにあてはめる

 文字を追うような読書だけでは、このモデルはまわらない。具体的な経験が伴っていないからだ(情報止まり)。本を読んで具体的な経験を棚卸し、照らし合わせることで本から得られた情報は知識へと変わる。

 なので、上記の情報と経験のマッチングがうまくいかない場合は、時間だけが過ぎて実りが少ない。

執筆をコルブの経験モデルにあてはめる

 一方、本を書く、つまり言語化するということは、人にも依るかもしれないが、このような動きになる。

 本を書くという動機(もしくは強烈な制約)が、経験への内省による抽象的概念化を行わさせることになる。これを徹底的に行うのが執筆という行為だ。途方もなく考えるし、自問自答する。圧倒的に時間は奪われる。だが、この行為は、これを本として読む読者よりもある意味、圧倒的に著者への学びをもたらす。

 言語化した知識を「他の人が理解できて意味があると感じられる」レベルの質まで持っていく。そこで求められる内省と概念化は忙しい日常の中で時間を縫うようにして行っているものよりも遥かに濃密なものが求められる

 その行為の過程が何よりも著者自身に発見をもたらすし、様々な派生する学びも生む。本作りという仕事をしながら、この半年近く、私のTweetは圧倒的に増えたし、このnoteを書くのも全く苦にならなくなった。

アウトプットによる学びと、インプットによる学び

 アウトプットによる学びは時として、インプットによる学びをはるかに凌駕する。ただし、それは豊潤な具体的経験があればこそだ。「量が質に転化する」という言葉の真因はここにあるのだろう。圧倒的な量の経験が、内省そして抽象的概念化によって知識へと変換され、次のよりレベルの高い行動を生むことに繋がる。

 一方、インプットは2タイプで捉えると良さそうだ。具体的経験を成り立たせるために、自分に不足している知識を補うタイプのインプット。多くの学習はこれにあたる。もう一つのタイプは、具体的経験を積みにくい、飛び地の領域の知識を獲得するタイプのインプット。

 例えば、ソフトウェア開発に対して、建築という領域はそのままでは知識に変換しにくいが、(ソフトウェア開発側の)具体的経験と照らし合わせ、抽象的概念化を行うならば大いに学びある領域とみなせる。

 インプットによる2タイプの学び、アウトプットによる学び、使い分けて学びそのものを楽しみたい。

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