「アジャイルは手段」がもたらす誤謬
「アジャイルは手段だから」という、別の言いたいナニカを成り立たせるためのオピニオンが、結果的に何も起こさないことになる事象について言及しておきたい。「アジャイルは手段だから」の後に何が続くかによってこのオピニオンに意義が見出せるか違ってくる。
「アジャイルは手段であって、目的ではない」は、アジャイルに関してよく耳にするフレーズの一つだ。このフレーズの周辺で、違和感や疑義があがることは少ない。
ところが、この言及は何にも繋がらない可能性がある。むしろ、それこそ本来実現したかったこと、目的を見失いかねないところがある。
こうしてアジャイルなるものをことさら言及する場合、ソフトウェア開発か事業作りか、あるいは組織改革など何かしらこれまでのやり方、あり方から変えたい対象がある文脈を置いているはずだ。現状を変えたい、これまでとは異なる方向性へと向かいたい、そのための手がかりとしてアジャイルに期待を寄せているという構図が当初にあったはずだ。
この変化には大きな抵抗感を伴う。慣れない立ち振る舞い、新たな判断基準に関する戸惑いを招き入れ、ある種の気持ち悪さに向き合い続けることになる。新しい概念(アジャイル)に振り回される不安から、この混沌を脱したいという思いが強まる。極まって出てくるワードが、件の「アジャイルは手段であって、目的ではない」となる。
なるほど、手段の目的化は回避しよう。で、その後は、何をどのように実現していくのか。この問いを置き去りにすると、ただアジャイルを止めるだけ。下手すれば何も変わらなくなる。皮肉にも変わらない選択を自分たちで行ってしまう。
「アジャイルは目的ではない、だから何を変えたかったのかに立ち戻り、自分たちのプラクティスを見直そう」こう考えられるならば、「変わらない選択」を回避できそうだ。
ところが、この立ち戻り先次第では、やはり「変わらない選択」を無意識に取りかねない。用例としては「アジャイルは手段であって、目的はビジネス成果を得ること、高めることだ」のような場合。結局これまでも掲げていた "従来の目的" に立ち返っているだけだ。
「高めたいビジネス成果とは何か? 何が欠けていて、取り組みとして何が必要なのか?」といった具合で解像度を高めなければ、何も変わらなくなる。これまで通り、数値目標を上げるために「今まで以上に効率よく、生産性高めていく」に落ち着きかねない。
つまり、目的ではない、で終わらせて何かを判断した気になっても、何も変わらない。また、目的に立ち返るとしても、手段選択がフリーになると、かえってこれまで通りのやり方の強化を選択してしまうという本末転倒がありえる。
問う先を少し変えてみよう。アジャイルが手段であって目的ではない、としたら、「アジャイルに期待することとは何だろうか?」
アジャイルから離れるのではなく、むしろアジャイルを掘り下げよう。その期待と自分たちがどうにかしたい問題とが一致するのか。問題を突破するためには、何をアジャストすれば良いのか、ここを捉えよう。「アジャイルに取り組んでみる」は既に一つ手がかりを得ているのだ。この機会を逃してはいけない。
もちろん、真に後先を全く考えていない "アジャイル適用" のケースも未だ多いことだろう。そんな場合は、そもそも自分たちが着目したい問題、テーマとは何かについて掘り下げる必要もある。
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