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建築はソフトウェアづくりにおいてリファレンスとなりうるのか
「代謝建築論」という本がある。
https://www.amazon.co.jp/dp/4395012086
この本にインスパイアされて、「正しいものを正しくつくる」という本を書いている。仮説を課題、機能、形態に分類するための指針として、菊竹清訓の本質、実体、形態(か、かた、かたち)を参考にしている。
古くから、建築における営みはソフトウェアづくりにおいてリファレンスされてきた。クリストファー・アレグザンダーの思想がXP、アジャイルへと流れ続いているように、(建築に比べて)歴の浅いソフトウェア開発の世界からすると、建築思想・設計は良き先達として存在している。
一方で、建築の世界とソフトウェア開発ではモノづくりの制約が大きく異なる。ソフトウェアは一度作ったものでも容易に変えることができる。建築ではそうはいかない。一度建てたものを劇的に変更することはできない。ゆえに、建築における営みなど参考にならないのではないか、と思う人もいるはずだ。
確かに、建築は容易に変更できない。ただし、ソフトウェアでも同じことが言える。建築には物理的な不可逆性がある。ソフトウェアには状況的な事実上の不可逆性がある。どういうことか?
ソフトウェアという「モノ」としては、コードを改変しようと思えば容易くできる。しかし状況的に、それを許容できないところがある。改変に必要な時間、コストを許容することができるかどうか。タイミングによって、変更自体はできるが、制約条件として変更できない、ということが起こる。無尽蔵にコードを改変できるリソース(経済的資源)は、たいていの場合ない(もちろんこのことは建築にもあてはまることだ)。
同じように不可逆の制約が存在する。建築とソフトウェアでその度合いや対象の性質が異なる点はあるが、抽象的には同等の課題と言える。と、捉えるならば、建築世界での不可逆性を背景とした営みはソフトウェア開発でも有用なはずだ。不可逆性が伴う世界でいかにして「代謝(有機的に変更していく)」を実現するか。本質、実体、形態の代謝建築論は、代謝ソフトウェア論とも言える。