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正しいものを正しくつくる

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書籍「正しいものを正しくつくる」に関するマガジン。 https://beyondagile.info/ https://www.amazon.co.jp/gp/product/4…
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#適応

透明性、検査、適応を3ヶ月やり通した先に得られるもの (ただし骨折において)

 左足第5中足骨骨折から実に10週が経過した。  ようやく、2本だった松葉杖が1本になり、装具(ギプスの代わりになるもの)を外し、よちよち歩きを始められたところだ。2ヶ月以上固定していた足を生脚で地面につけるのは勇気が要る。自分の足でありながら自分のものではないような感触。ちょっと踏み損ねただけで、いろんなところに影響がでそうな繊細な足になっていた。  この骨折からあらためて思ったことがある。人間のからだはブラックボックスで、外部からはフィードバックを頼りにするシステムに

「探索だけ」行う、「適応だけ」行う、ではなく「探索と適応」を繰り返す

 常日頃、「探索と適応が不可欠だ!」という話を至るところで行っている。  それだけに、そろそろ概念の整合を取らないと、ちょっと辻褄合わないなと思うところがある。人にモノを伝えようとすると、口にした瞬間に概念の「くるい」に容易く気づくことができる。  探索と適応は、「仮説検証型アジャイル開発」とその並びのイメージを合致させている。  なのだけど、前半の仮説検証にしても、ベースとなる動き方は「アジャイル」になる。仮説検証だけウォーターフォール的なプロセスで、後半だけ「アジャ

アジャイルに期待する「はやさ」とは何か

 「アジャイルは速い」「速くやるためのアジャイル」といった見方はどこからやってくるのか。かつて、ソフトウェア開発で交わされたこの手の期待が今またアジャイルを組織に適用する文脈でも繰り返されている。「アジャイル」のその実体がなんだか分からないまま、こうした高速論が先立つことが多い。  当然ながらソフトウェア開発においては、非アジャイル型の開発との比較で、アジャイルの本質とは何か?を捉えていくことができる。一方、組織論では比較の解像度がやや劣る。「効率に最適化しすぎた結果、かえ

「最適化」と「他にありえる可能性」の間を振り子のように動けるか?

 事業、それから組織そのものに向き合うことになって、はっきりと分かってきていることがある。「新規事業開発」で仮説検証型アジャイル開発を手にして、「デジタルトランスフォーメーション(DX)」で越境型のアジャイル、DXと隣り合わせの「組織変革」で組織アジャイルと、広がる戦線とともに得物も変えてきている。ただ、その芯にあるものは同じ。「探索」と「適応」だ。  説明のために厚く武装された、様々な言葉を剥ぎ取っていったとする。最後に残る言葉は「探索」と「適応」の2つになりそうだ。事業

「アジャイルとは何か?」という問い以上に向き合いたいことがあるはずだ

 「アジャイル」とは何か? この数年、たくさんの人達にこの問いについて語ってきたように思う。アジャイルとは何か? 何だって良いじゃない、あなたが必要だと思えば向き合えば良いし、そうじゃないんだったらそっと蓋を閉じるなりすれば良い。  そういう声も心のどこかにはある。その一方で、より良い状態を作っていきたいと思う人達への手がかりを作れるものなら、やはりそうありたいと思う。  「そんなのアジャイルではない」という否定でも、拒絶でもなくて。「なんか良いって聞きました〜(良いこと起

惰性の「検査」「適応」ではなく、「見る目」の方を変える

 ある時間の区切りごとに定期的に「検査」「適応」を行う。今ここまでに自分たちチームや組織が生み出したものや実現できたことをまず確認する(検査)。それから、その次に取る判断や行動がより適切なものとなるように、取り組むことや止めることを決める(適応)。こうした検査と適応を連鎖させていくことで、自分たちの思い描く状況を作っていく。  この「検査」「適応」の際に、時々直面するのが「物事を見る切り口」の不足だ。検査対象をどう見るか、それを生み出すチームや組織をどう見るか。ある一つの事

「探す」だけではなく「作る」という行為を手の内に持つ

 「考えてもよく分からないから、云々唸り続けるより、実際にやってみよう」こういうスタンスが無いから、終わりなきミーティングを重ねることになってしまう。手の届く範囲を調べたところで、あるいは手元にある情報だけで、考えを巡らしたところで、筋の良さを感じられないならば作戦を変える必要がある。  ところが、えてして考えた結果のアウトプットがいまいちだから「もっと情報を集めてみよう、もっと考えてみよう」に倒してしまう。  それでもダメだと、「調べ方や考え方がなってないのではないか(ど