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アジャイルに期待する「はやさ」とは何か

 「アジャイルは速い」「速くやるためのアジャイル」といった見方はどこからやってくるのか。かつて、ソフトウェア開発で交わされたこの手の期待が今またアジャイルを組織に適用する文脈でも繰り返されている。「アジャイル」のその実体がなんだか分からないまま、こうした高速論が先立つことが多い。

 当然ながらソフトウェア開発においては、非アジャイル型の開発との比較で、アジャイルの本質とは何か?を捉えていくことができる。一方、組織論では比較の解像度がやや劣る。「効率に最適化しすぎた結果、かえって非効率に安定化した組織が、標準として置く仕事のやり方、意思決定の方法」との比較。ソフトウェア開発の具体性に比べると、比較の解像度を高めて論としてまとめていくのが難しい。

 よってもって、曖昧なまま「アジャイル組織論」が組織内で議論として展開され、「よくわからないもの」あるいは「具体的にはどうするのか」といった壁に突き当たり、進まなくなる。唯一わかりやすく聞こえる「アジャイルは速い」が、実行にあたってのミスリード役をきっちり担うことになる。

 アジャイルにどこの「はやさ」を期待するのか?

 「アジャイル速い」の誤謬の一つは、PDCAの重さからやってくるように思う。よくある、PDCAのPが長すぎる(遅い)問題に対して、期待されるのは「動きの早さ」である。ここだけが強調されていくと、そのアンチテーゼたるアジャイルには、当然「速さ」がフォーカスされる。「短い計画(場合によってはほぼ無計画)でとにかく進める」ことが、すべてになる。

 一方、PDCA全体で見ると(Pに限らず)、全体の周回に時間を要している問題が存在する。一回のPDCAに相当なる時間を費やし、一向に「適応」にたどり着かないという状況だ。つまり、動きの速さなのか、適応という結果に対する早さなのか、2つの問題が重なっていることに気づく。この重なりが、アジャイルへの期待に関する誤謬に繋がっているのではないか。

動きの速さと、適応の早さ

 アジャイルへの期待とは、適応の早さ、つまり実際に取り組むことで得られる学び、これをいかに早く獲得し、その次の判断や行動を良くするかである。この狙いの下、結果として「動きの速さ」が伴うところも確かにある(早さに至るために "ムダを省く" )。それがまた誤解を生むことになる。

 ところが、「効率に最適化した組織」の場合、もともとのメンタリティから「動きの速さ」へのフォーカスが際立ちやすい(要は、効率への最適化の呪縛が解けていない)。結果、「アジャイル速い」が新たな取り組みを進める根拠、礎になってしまう。肝心の「適応」をどのように得ていくかが置き去りとなったままに。

 「Pが長すぎる問題」は当然全体の周回も遅くしてしまう。ゆえに、「動きの速さ」と「適応の早さ」問題の見分けが付きにくく、混ざりやすい。混ざると、アジャイルとは、そもそも何を期待するものだったのか?分からなくなる問題を誘うことになる。

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