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マリがかわいいからマリについて無理矢理考える

2021/03/15 追記しました

いやあ、よかったですね。間違いなく名作秀作大傑作。文句なしの作品でした。

まさかエヴァをみて泣く日が来るとはな、というのが率直な感想。とにかく泣かされた。実は公開日の月曜に観に行って、三日後の今日、また二回目を観たのですが、二回目にして7回泣きました。本当に。ぼくはあまり作品を見て泣いたりするタイプではないんですが、それだけこの作品がぼくにとって特別なんだなと、改めて感じています。


さて、今作にはいくつかのテーマが表されていると思います。それぞれのテーマはそれぞれに、いろんな表れ方をしているのは、きっと誰もが気づいたことでしょうが、それらを大きく包括すると「精算」なんじゃないかなと、ぼくは思いました。そりゃ最後だしね。シンジ君も「落とし前つけたろやないかい」って。というわけで、その「精算」をキーワードに、ぼくがこの作品から感じ取ったテーマをつらつらと、思いつく限り、書いていこうかな。それを感想としようと思います。

まあ、明日もう一回見る予定なんですよ。明明後日も。観る度に発見があるだろうから、その度に追記していくつもり。こういうのは時代を楽しんだもの勝ちだから、楽しんだ証拠を残したいね。エヴァンゲリオン2(2003年,PS2)の公式サイトって、実はまだあるんだけど、そこには製作を担当したゲームデザイナー芝村裕吏さんのコラムが残ってて。是非一度読んでほしい。あの当時のオタクの、あのノリが、ぎゅっと濃縮された世界を覗くことができます。芝村さんは今でも素でああいう人かもしれないけど、ああいう人はたくさんいたんだ、ということが、ぼくをワクワクさせてくれる。それの令和版に、ぼくは参加したいのです。

引用背景がついてるところは脱線なので、読まなくてもいいです

「考察」への精算

エヴァと言えば考察。考察アニメといえばエヴァ。Googleセンセも「エヴァ」と言ったなら二つ返事で「考察」だの「解説」だのと続くのがこの作品。前作Qが波乱万丈(やさしい言い方)だっただけに、今作も「解決編」としての役割に注目されていました。エヴァ最終章ということですから当然ですね。しかし蓋を開けてみると、今作はそれとは違うやり方で、精算されている気がします。つまり、考察を諦めさせるような、そんなやり方です。

いやいや、ぼくが考察を投げているわけじゃあないんです。恐らくエヴァを見て考察を投げる人っていうのはかなりのもの好きと思うのですが、いかんせんキャラ愛だけで視聴するには少しシンドイ内容ですから、ぼくもこの作品に出会ってからつい先週まで、まー、あれこれと考察サイトを漁ったものです。だからこそ、それなりに胸を張って言えます。今作はご都合主義であると。

これは前々から思っていたことですが、道理を求められるSFロボットアニメってどんなんだよって。マジンガーZを観て「割れたプールの水は一体どこに行くのか」なんて考える人はいませんが、エヴァを観て「LCLとはいったい何なのか」を考える人はいるわけです。もちろん、そういった設定を前面に押し出しているエヴァと、背景としているその他ロボットアニメを同列に語るのはおかしいことではありますが、それでも設定はあくまで設定。熱血主人公のテンションでロボに不可思議な力が宿る、それがその世界ですんなりと受け入れられる、それがロボアニメのお約束であって、人はそれを時として受容したり、あるいは「やりすぎだろぉ!」と批判したり…。少なくともSFロボアニメである以上、トンデモ設定はあって然るべき、ところがエヴァはそれまで、そのようなご都合主義が、さもご都合ではないかのように、何とか理由をつけようとしていた、あるいはオタクたちに勝手にされていた作品であったと、ぼくは思います。
もちろん、エヴァにそういう楽しみ方があるのは百も承知だし、それが庵野監督の専売特許でないことも分かっています。しかし、25年もの間、謎が謎を呼びまくったエヴァンゲリオンという作品が、たった一章でそれまでの全ての考察を精算できるのでしょうか?しかもその上、一作前が"あの"Q。どう考えてもあれは、いち視聴者が考察なんて言葉で手に負えるものじゃなかったはずです。もしも今作シンで、ファンが望む形の考察の精算を行うことができるとしたら、それはもう冒頭から160分、説明文ずららららっっって感じの作品になると思います。いやきっと、それでも解決しないだろうな。だから、かどうかは分かりませんが、監督が選んだ考察の精算の仕方はそうではなかった。それはご都合主義街道を「突き抜ける」というやり方。

今作を観てて、それを強く実感したのは南極パートから。ぶんたーの姉妹艦がでるわでるわ。Mark.7も誰も予想していなかった形で登場し、最後には黒木月を槍に!?もうそこで「あ、これやってんなあ」と。すがすがしい。プロメアか?いやもしかすると、それらにも聖書やら過去作やら観れば、何かしらの説明はつくのかもしれません。しかし「マイナスの宇宙」とか「イマジナリーエヴァ」とかまでくると、もはやファンタジー。最終回で超空間へと突入したダンクーガと一緒。きっとぼくが直前まで読んでいたQの解説を頑張っていた方々は、あのシーンでへなへなと崩れ落ちたんじゃないかな。

しかし考えようによっては、これは救いでもあります。設定なんてのは製作陣の考え方ひとつで、どうにでもなるもの。シンの予告にカヲルが映ったのを見て「シンでは第三のカヲルが出てくる」なんて考察していた人もいます。決して、考察の山が外れたことを揶揄しているわけじゃないんです。ただ、本来アニメのご都合主義なんて風のように移り変わるもの、それを必要以上に追い求めて、エヴァンゲリオンという作品の終わりの日に、その墓を暴くような真似はせずに済んだということを、感謝しましょうよ。Qに残されたあの謎は一体どうなるんだ!?という答え合わせの姿勢だけで、エヴァの別れに立ち会うのはなんとも寂しいものじゃない?、と最後にぶっ壊れ設定をぶつけてきたのは、なんとなくそんな意図が、あった気がしないでもありません。


「現実」への精算

今作のラストは宇部新川駅エンディングでした。たぶん、人によっては「は?」なラストかもしれません。ぼくは意外とすんなり受け入れられました(で、泣いた)。エヴァンゲリオンという作品の最後のシーンを飾る宇部新川。そこにテーマが現れていないわけがないのですが、それは一体どういうものなのでしょう?これには三つのアプローチがあると思います。

ひとつ。エヴァ、実写とくれば、ここでふと思い返されるのは旧劇場版です。旧劇でも実写シーンが登場しました。声優陣の談笑、レイアスカミサトのコスプレイヤー、そして映画を観に来た観客(もちろんオタク)。エヴァに実写パートを挿入しようという試みは、旧劇の時点で既にあったということが伺われます。しかし今回と明確に異なるのは、実写の扱い方です。

旧劇の実写の扱い方は、どちらかといえばシニカルであり、またどこか悲しみや憎悪に満ちた内容でした。俗説では、あのパートは「エヴァブームのオタクに嫌気が差した庵野が、いい加減目を覚ませという意味を込めた」とされています。ぼくはその説をあまり信じてはいませんが、なるほど、そうとも言えなくもないな、とも感じます。特に「庵野殺す!」のシーンなんか、それのほかに意図が思いつかない、重要で象徴的なものであると思います。

なぜ「庵野殺す!」が重要なのか?といわれれば、その答えはただひとつ。それは、このシーンが「エヴァンゲリオンはテクスト論だけでは済まされないよ」という宣言に他ならないからです。テクスト論っていうのは、簡単にいうと、作品と作者を切り離して考えるということ。
私小説って知ってますか?日記のように書かれた小説、いまでいうエッセイみたいなものです。一人称が「私」で書かれることが多いので「私小説」なのですが、では日記風小説の「私」っていったい誰のことでしょう?かつて日本で私小説が流行したころ、人々はその作品に熱中し、「私」をより深く考察しようとするあまり、作者の生活や動向を、それはもうストーカー並みに「研究」するようになりました。つまり、「私=作者」としたわけです。
例えば「私」はホテルに泊まったことになっているが、それはどのホテルなのだろう?…このとき、「作者は執筆時には箱根にいたらしい、じゃあ「私」の泊まったホテルも箱根にあるに違いない」…といった具合で考えるのが、いわゆる作家論。つまり、作品の分析のために、作家の境遇を根拠とするわけです。
いやちょっと待てと。「私」というのはあくまで創作上の話。創作上に登場する「私」であるならば、それにまつわる情報もまた、この作品からのみ分析すべきだ、と考えた人もいました。ほらほらよく読んでみろ、大阪から電車で30分と書いてあるぞ…みたいな。これがテクスト論。
テクスト論とはすなわち、「作品を根拠に、様々な解釈をする」ということ。先ほどの例でいえば、大阪から電車で30分という情報があれば、半径30分圏内の全てのホテルが解釈としてありうるわけです。だから「何が書いてあるのか」が非常に重要になってきます。逆に作家論は、作家自身が答えを持っているため、正解は一つ。インタビューで「ホテルって書いたけど実は友達の家なんだよね笑」なんて答えた日には、もうその作品に書いてあることなんて、何の価値もなくなってしまいますね。
これは別にどちらが正しいとか、正しくないとかではありませんが、私が大切だと思うのは、作品を評価するうえで、どちらかに立って観たほうが良いということ。ごちゃまぜはよくない。だって、判断基準を作品そのものに置くのか、作家に託すのか、をはっきりせずに評価するということは、評価する人の都合の良いように判断基準を採用できるということですから。あっちではテクスト論のくせに、こっちでは作家論じゃあ、もう何でもありじゃん!ってね。
さあここで、「庵野殺す!」を考えてみましょう。あの実写パートは、どんなひねくれた考え方をしたとしても、「エヴァは作家論である」と宣言している瞬間です。エヴァンゲリオンの世界に庵野というキャラクターはいませんから、あの「庵野」が差すのは十中八九庵野秀明その人。そんなこと言わなくても、あのアニメが庵野秀明の情緒の波を抜きに語れないことは誰も分かってたことだろ、と思われるかもしれません。しかしそれまではまだ、テクスト論としてあのアニメを解釈する道はあったんです。ところがあのシーンがトドメを刺してしまった。
となるともう、あとは地獄です。私たちがエヴァを本当に理解するためには、庵野秀明という人そのものを理解するよりほかありません。彼が健康で受け答えできるうちはまだ救いがあります。では100年後は?庵野秀明という人のインタビューやメディアを追い、生活を追い、人生を追ってまでして、エヴァを理解しなくてはならないのか?うーん…

つまり、旧劇は実写パートで「やらかしてる」と、ぼくは思うのです。結局あのシーンは人の醜さ、愚かさを見せつけて、だから完璧な存在になるために補完しあおうぜ~シンジ~っていう話のフリだったと思うのですが、その手段がまずかった。変にコスプレイヤーだのオタクだのを映すから、「オタクに嫌気が差した庵野が…」なんて言われ方をする。しかも半分くらいはたぶん当たり。いや、監督が個人的に体験した喜怒哀楽をもとに、創作描写するのはいいんです(というかそれが普通)。しかしそれらの体験は普遍化されて、メッセージとなっていないと、あのシーンでは意味がない。シンジ君の脳裏に「庵野殺す!」を浮かばせて、どうするつもりなん?って。また、それまで聖書やらなんやらを引用して、客観的に(テクスト論的に)考察をしていた人たちは、あのシーンはまるっきり見て見ぬ振りをするより他ない。つまりあのシーンだけ、浮いてるんです。

ともかく、庵野監督はアニメmeets実写の手法を、取り違えてしまった、よってその実写パートの「落とし前」をつける必要があった、アニメと実写を融合させるとはどういうことなのか?を改めて考える必要があったのではないかと、ぼくは思いました。それを示すように、序破Qシン、いずれのパンフレットにも庵野カントク自身のインタビューは載っていません。どれも声優や監督(≠カントク)のものばかり。その内容には「庵野カントクの指示が細かい」というエピソードがこれでもかと出てくるのですが、じゃあそのカントクの胸の内を聞かせろや!と思えば、それがない。思うに、わざと受けてないのじゃないかなって。その一方で、旧劇のころはインタビューをよく受けていたようです。

現実の精算 ふたつ。それは「新世紀エヴァンゲリオン」という作品において。シンジ君は最後、アディショナル・インパクトでエヴァのない世界を再構築しました。そうして再構築された世界が宇部新川駅なのですが、これはつまり、エヴァンゲリオンという作品を終わらせる/解消する/別れを告げる、その結果行きついた先が、この私たちの生きる現実世界であるということ。うーん!言葉で伝えるのむずい!

ひとまず、事のいきさつをまとめてみましょう。それはシンジ君がマリの手に乗って裏宇宙に行ってからのことです。シンジ君は初号機に乗り込み、13号機を操るゲンドウと戦います。ゲンドウはシンジをゴルゴダオブジェクトへと誘います。それは人ではない何かが残したモノ。運命を書き換えることができる唯一の場所。場面がコロコロと移り変わり、途中には映画セットのようなところに行ったり。力では勝てないことを知ると、話し合いを申し出るシンジ君。場面はネルフ本部に移り、こういいます「父さんは何が望みなの?」。ゲンドウがシンジ君をネルフ本部地下へ連れていきます。そこにあるのは黒いリリス。ゲンドウ曰く「これはエヴァンゲリオン・イマジナリー」と。二つの槍によって現れたのはデカ波さん。ミドリちゃん「ありえないっしょ!」
※追記 「ありえないっしょ!」じゃなくて「こんなの絶対ヘン!」でした。 追記ここまで。
ゲンドウの独白が始まります。ゲンドウの独白は「人類補完計画を介してユイに会いたい」と「シンジがこわい」の矛盾があり、それに気づいたゲンドウは幼少シンジ君を抱きしめることでユイの存在を見つけることができ、イヤホンと同時に電車を降ります。
アディショナル・インパクトの実行者がシンジ君に移ると、13号機に残っていたカヲル君がその道案内を申し出ます。ところがシンジ君は「ぼくはもう、つらいことがあっても大丈夫」とそれを拒否、次はアスカを助けようとします。アスカの独白が始まります。明かされる真実がふたつ。アスカもクローンだということ。幼少期に幼少シンジを見たことがあるということ。ケンスケが「アスカはアスカのままでいいんだよ」と頭をなでます。はっと目を覚ませば赤い海の砂浜に、赤いボロボロのプラグスーツを着て横たわるアスカ。横にいるシンジが言います。「好きって言ってくれてありがとう。僕も好きだったよ。」真っ赤にした顔をふんっと横に向けると、マリ。お別れの言葉を残して、エントリープラグが排出されました。
次はカヲル君、君の番だよ、とシンジくん。カヲル君の独白が始まります。ループ説に関するめちゃ重要なことを言って、山寺宏一に一番いいパスを回して、カヲル君も退場…後姿を見送りながらガラガラとシャッターが落ちたそこは撮影スタジオでした。
最期は君だけだ、と視線をやると、綾波レイ。髪がボサボサの彼女は破のレイです。腕に抱く赤ちゃんの人形が、彼女に母性が生まれたことを示唆しています。シンジを案じて立ち去ることを拒みますが、シンジはレイにも「エヴァに乗る以外の生き方を見つけてほしい」と言います。エヴァのない世界を作る。そう約束して、綾波も退場。
残された槍を使っていざ自決せんとすると、ユイが身代わりに。Mark7までのエヴァと同時に槍を突き刺すことでアディショナル・インパクトを阻止、デカ波崩壊。インフィニティのなりそこないが、ニアサーで失われたと思われた人々に(あれって人間が集合してエヴァになってたんだね!)
最期海辺に残されたシンジ君。シーンがだんだんと荒くなり、動画、絵コンテ、すわ消えるか…というところでマリ登場。ギリギリセーフ!で最後のエヴァンゲリオンに別れを告げ、はっと気づけば駅。


まず、前提としておきたいのは、そこには二つの世界があるということ。ひとつはもちろん、エヴァの世界。セカンドインパクトが起きて、シンジ君がいて、アスカがいて、レイがいて…まさに作品の舞台となったその世界です。もうひとつが、現実世界。つまり今。ナウ。私たちの世界。令和のこの世界。エヴァの世界を二次元、私たちの世界を三次元と呼んでもいいです。アニメと実写と呼んでもいい。とにかく、この話には二つの世界が出てきます。

さて、この前提に立つと、終盤の流れもなんだか異なる見方ができそうです。まず「ゴルゴダオブジェクト」。人ではない何かが残していったもので、運命を書き換える力を持つもの。設定上の話でいえば、おそらくこれは第一始祖民族の遺物なんだろうなと思いましたが、それと同時に、「製作スタッフ」の暗喩のような気がしています。第一始祖民族=スタジオカラーってことね。ゴルゴダオブジェクトの中では人の知覚機能ではモノを認識できないため、LCLが記憶を基に空間を作ります。その結果、街や教室、ミサトの部屋で戦うのですが、そうするうちにその空間が撮影セットである描写がでてきます。設定上でいえば、「認知の限界を超えたから」(シンジ君はミサト家の壁の向こうに何があるか知らないから、LCLはそれより先を再現できない)そういう表現になったのでしょうが、これは後半、特にカヲル君が送り出されるあたりでは、明らかに「エヴァという映画を撮影している場所」として描かれています。初めは作品の設定に乗った表現でありながら、いつの間にかメタ的な記号として作用している、この移行は本当に見事です。

話は前後しますが、エヴァンゲリオン・イマジナリー。これもまた、不思議な存在です。人の虚構と現実が混ざり合った結果生まれた~みたいな感じだったと思いますが、これもまたメタ的な意味合いを含んでいそうです。ここでいう現実、とはシンジ君たちにとっての現実、すなわちエヴァの世界のことです。逆に虚構とは?それは私たちにとってのエヴァのことじゃないのかなって。だって、私たちの世界にエヴァはいませんから。またあるいは、私たちが散々考察して骨までしゃぶりつくしたエヴァンゲリオンという作品のことなのかもしれません。星の数ほどの解釈が生まれ、いろんな公式ゲームが登場し、もうハチャメチャになったエヴァという作品、それが含む虚構の性質について示しているのかもしれません。だから、イマジナリーから生まれたデカ波さんは、やたらとリアルです。あのCGちょっと違和感ありませんでしたか?まぶたもまつ毛もえくぼも、超リアルに描かれている。正直かわいくはない。それを見たミドリが「ありえないっしょ!」(※「こんなの絶対ヘン!」)というのは、単にアディショナルインパクトがありえない光景だ、と言っているのではなくて、「あんな人間いないでしょ!」という意味も含んでいる気がしました。だって彼らにしてみたら実写の人間なんてありえないだろうし。リツコも「イマジナリー・エヴァンゲリオン、まさか存在するとはね…」と続きます。それもそのはずです。エヴァンゲリオンの作品の登場人物からしてみれば、別次元で虚構として組み立てれている自分たちがいるなんて、考えもつくはずがありません。その後の大量の首なしマネキンも、またなんか違和感バリバリのCGなのですが、これもエヴァの世界と現実世界、虚構と現実という面からみると面白そうです。

次にメタな視点が現れるのは、撮影スタジオです。そこんはぶんたーの模型やエントリープラグ内のセットがあったり。そこで「エヴァの世界が作られている」ことを意味しています。もしもこれがゴルゴダオブジェクトのLCLの話で説明されるのだとしたら、映画用の照明やコントローラーが出てくるのは説明が付きません。だって、あの空間はシンジ君の記憶とは関係ないはずですから。あれらは明らかにエヴァの世界を作る存在、すなわち製作スタジオを意識していると思います。先ほども述べたように、初めはLCLの理屈から始まって、気が付けば撮影スタジオにいる。この流れが本当に美しい。

しかしその撮影スタジオも、あくまでアニメ。実写の世界をアニメの世界で描写したそれは「再現」どまりであって、まだシンジ君がエヴァの世界を完全に超越しているとは言い難い。そこで次の海のシーン。とうとうシンジ君は原画になってしまいます。これは先ほどの撮影スタジオよりも、より現実に近づいているといえるでしょう。あのシーンはシンジ君が目指すエヴァのない世界=シンジ君が原画で表現される世界=現実世界であることを意味しています。

で、ラスト。一変してアニメの世界。電車待ちのシーン。向かいのホームにはレイとカヲルとアスカ(ホーム左の方のベンチにいるよ!スマホいじってるJKじゃないよ!)がいます。マリといちゃついて、DSSチョーカーが外されて、宇部新川駅。

まず、あの駅のシーンは、既にエヴァのない世界。レイもアスカもカヲル君も、もうエヴァのパイロットではないし、ネルフもゼーレもヴィレも関係ない。普通の一般人になれたわけです。ところが、シンジ君だけは違う。なぜなら首にDSSチョーカーがあるから。あれはエヴァの世界から持ってきたもの。逆に言えば、いまシンジ君を「エヴァの世界の住人」たらしめているのは首のDSSチョーカーだけなんです。それをマリが外してしまう。その瞬間、シンジ君は「ネルフのわんこ君」ではなく一般サラリーマン「碇シンジ」になれました。マリだってもう「わんこ君」なんて呼びません。

なぜマリはDSSチョーカーを外せたのか?これには「マリ使徒説」とか「マリ開発者説」とか、設定上の説明はいろいろあるでしょう。ところが、あそこはもうエヴァの世界じゃなくて現実の世界。使徒とかクローンとか、そういう設定はないんだよ、そういうのを超越した/解決した/無効化した世界なんだよ、という意味もあるでしょう。またあるいは、マリがその首輪を外すことで、シンジ君の「エヴァのない世界を再構成する」という任から解く、という意味もあるかもしれません。

そうして、カメラが引いて、アニメの描写が実写の描写に変わっていく。人の希望と願いが神を超えて、シンジ君が再構築した世界、それが今なんだ、というメッセージ。

庵野カントクが旧劇でやらかした実写の扱い方とは、明らかに違います。もっと希望と喜びに満ち溢れていて、未来を感じさせる。旧劇の実写は「おらおら現実に還れよ!エヴァなんていないから!」という、アニメと実写の分断でしたが、今回はアニメを現実に溶かし込むという手法。スーツ姿のシンジ君。ヤンチャなお姉さんっぽいマリ。誰もかれも、ぼくたちの隣にいる普通の人のような姿。これは、25年に渡って運命を翻弄されてきた少年少女たちへの救済でもあり、アニメと実写に境界はないんだという可能性の提示でもあり、ぼくたちのすぐそばにシンジ君たちが生きているかもしれないというカントクのやさしさでもあります。

ぼくは、よくあることなのですが、ひどく心を打たれたアニメを観ると、観終わった後にとんでもない疎外感を感じることができます。1時間ちょっとだけどずっと一緒に過ごした仲間たちが、突然ぼくだけを置いてけぼりにして、無視して、自分たちの世界を続けていくような。作品が素晴らしければ素晴らしいほどその反動は大きく、ぼくがアニメをあまり見ない理由のひとつです。そのときぼくは、おしっこをするとか、鼻をかむとか、現実では当たり前で、必要不可欠な行動をとるたびに、「ああ、ぼくは彼らとは住む世界が違うんだな」と知らしめられ、心が苦しくなります。

新世紀エヴァンゲリオンに別れを告げることは、キャラクターに別れを告げることでもあります。庵野カントクが、ぼくのそんな心情を酌んでくれたのかどうかは分かりませんが、このエンドは、かなり精神にやさしいものであったと、あなたには理解してもらえるでしょう。確かにつらかった。ああ、もう終わったんだ、という思いはあったけれど、その行き着いた先が現実世界、ぼくの世界なんだとすれば、不思議と仲間外れのような気がしない。「作品としてのエヴァンゲリオンは終わるけれど、シンジ君たちはいつもあなたたちのそばにいますよ」と、言ってくれているような、そんな思いがするのです。「あなたの心にいる」とかしょーもないセリフをキャラに言わせるよりも、実際に手法として実現させてくれる。それができる。それこそが庵野カントクのすごいところであって、この作品の監督が彼で良かったなあとぼくが思う理由です。

現実の精算 みっつめは、そんな彼の手法に関わります。まあこれはパンフ読めば一発なんですが、庵野カントクとそのスタッフ方はシン・ゴジラでの経験を活かし、「実写っぽいアニメ」ではなく「アニメっぽい実写」を作ろうと腐心されたようです。今回は絵コンテを切らずに、3Dモデルを起こしてなんとかかんとか…専門家じゃないので詳しいことはパンフを読んでください。つまり、初めからこの作品はぼくたちの世界に寄り添って作られていたということ。最後のオチは後付けなんかじゃない、ってことですね。


「恋」の精算

なげ~ いつまで続くんだこれ

この作品でぼくの好きなテーマの一つが、恋です。それはアスカとシンジの恋。時折、「なんでマリエンドなん…」という声を聞きますが、まあそう思うのも無理はないけれど、これはアスカエンドにするわけにはいかない理由があると思うのです。

そもそも、シンジの嫁にはアスカ派とレイ派とカヲル派の三大勢力がいることを知るべきです。旧劇じゃアスカだったからといって安直にアスカ派にしてはレイ派とカヲル派が……っていう冗談みたいな話。これも精算という意味ではあながち間違いではないですよね。

本編で気になったのはアスカもシンジも「好きだった」というところ。なんで過去形なの?今も好きでしょ?なのにマリなの?ってね。しかし今回のテーマは精算ですから。

まず普通に考えてほしいのが、アスカはいま28歳だといこと。28!?破では中学生だったのに今や高校、大学飛び越えて社会人、しかもアラサー。ニアサーで大変な思いもしているところに、外も中身も14歳の初恋の人が現れて、それで恋をし直すほど、アスカはメルヘンな女じゃありません。何人も大事な人を亡くして、満身創痍で戦って、そこにやってきた初恋の人は14歳のまま。おそらく本当にガキに見えるでしょう。アスカじゃなくてもガッカリするはずです。パンフでみやむーも似たようなこと言ってます。

でも勘違いしないでほしいのは、それでも優しさはあったということ。シンジの家出先を見に行ったり、レーション食わしたり。あとでそれが監視任務であったことを明かされますが、あの眼差しは本当に14歳を案じている大人の目であるように思えます。あいつに必要なのは恋人じゃなくて、母親よ、とは言いますが、母親の愛情がないのはアスカだって同じ。あるいは「今ならまだ間に合う」とすら思っているのかもしれません。それは哀れみなのか、妬みなのか。自分でこの世界の状況にしておきながら、自分がいかに恵まれいるのかを知らない。母親よ、のセリフの後、映し出されるのはミサト艦長。つまりアスカには恋人も母親も務まらないということ、彼女自身が自覚している。そんな彼女の恋は、最後の出撃前に精算されます。あの時、あなたを好きだった。それがアスカなりの過去の清算だったんだと思います。なぜあの時ガラスをpunchしたのか仕切りに聞いているのも、シンジ君のことを想っていた気持ちがあったからでしょうね。

シンジ側は?彼はシンの出来事を通じて急激に成長しましたよね。人の犠牲や責任を背負って。シンジにとっても、アスカは初恋の人であった気がします。これは「恋の初めてだった」という意味ではなく、「もう終わった恋である」という意味です。そもそも、アスカは幼少の頃シンジを観ています。両親に愛される姿をみて、アスカは泣くのです。そんなアスカをシンジが慰められるわけがない。もちろんシンジ君にはシンジ君なりの親の愛情に関する問題があったのですが。…また彼はみんなに「エヴァに乗らない生き方を見つけてほしい」と切に願っています。綾波シリーズが第三パイロットに好意を抱くようプログラムされているように、アスカもまたその可能性はある。ならばシンジは当然、エヴァによって惹かれ合った関係よりも、ニアサーの大混乱で芽生えた感情の方を、尊重することでしょう。

最後アスカに「好きだった」と伝えるのは、ケンスケに撫でられるシーンの後です。シンジは既にアスカにはケンスケがいるということ、それが彼女には相応しいということを知っていました。ふたりで幸せにね、その手向けのために、過去の清算に答える形で、「ぼくも好きだったよ」と告げる。庵野カントクはかなりの女たらしだったそうですが、こんなに甘酸っぱくて、それでいて大人な恋を描けるのには、本当に舌を巻きます。

※追記 あの時のシーン、ボロボロの赤いプラグスーツを着たアスカはやたらとキラキラしていて、かわいらしさに溢れているようにみえました。肌とか、髪とか…あれは一体どういう描かれ方なんでしょうね。旧劇の続きに位置するシーンとしては、どうにもおかしい…旧劇ラストのアスカの目はトラウマレベルの虚無でしたが、今回はほんとにツヤツヤした目というか、頬っぺたというか…とにかくピュアです。満身創痍とは真逆、まるで生まれたて。あるいは新しい恋に目覚めた少女のような。少なくとも、彼女が今まで背負ってきた責任や任務、孤独といったようなものは感じ取れません。恋して生きる、14歳のそれです。あなたはどう思いますか? (追記ここまで)

他にもこの作品には「好き」がたくさん出てきます。それはLoveというよりも、むしろ相手を受け止めるような温かい、やさしさの「好き」に近いものです。Hateで満ち満ちていた旧劇とは雲泥の差ですね。その象徴としても、最後に首を絞めたシンジと、好きを伝えたシンジ君があるでしょう。旧劇では傷ついたとしても再びみんなと会える世界を望んだシンジ君が、やっぱりアスカに嫌われることを恐れて首を絞めます。アスカはそれに優しさで答えました。シンでは、初めからアスカに優しさを差し出しています。なんとハートフル。差し出す、でいえば、S-DAT。別レイからシンジへ、シンジからゲンドウへ。ゲンドウへ差し出されたS-DATはATフィールドを貫通していました。恐れに対して優しさがどのように作用するのか、うまく表現されたシーンだと思います。

※追記 母親の話で言えば、ミサトさんのサングラスに注目してみると、彼女が艦長としての仕事をするとき=サングラスON、母親としての責任を果たすとき=サングラスOFFになっていることが分かります。外そうとしてOFFにしているわけじゃないんですが、そこが連動しているのは間違いないかなと。ラストでシンジ君をかばうシーン。「彼の管理責任はこの私にあるということです」と言うのも、一見艦長としての責務を全うするシーンに見えますが、すぐ後の会話でそれが「母親として私ができること」だと語られます。母親とはシンジ君に対する母親でもあるかもしれません、ですが恐らく、シンジ君にすべてを託し送りだすことで、世界を救い、結果として息子のリョウジを生き長らえさせる、そういった意味での本当の母親としての役割を意味しているのかもしれません。彼女は旧劇では、シンジ君に大人のキスを一方的にぶつけ、ただエレベーターに載せて終わりでした。まあ瀕死だったというのもあるけど。しかし今作は、同じように腹に弾食らっておきながら「しっかりサポートする」と言っています。だから安心して行ってきなさい、と。母親として最後に子供の「責任を取る」ということが、肉欲ご褒美を用意するということなのか、あるいは、後ろは任せなさい!ということなのか、答えははっきりしていますね。
逆にゲンドウは、サングラスの下には既に目がありませんでした。これは父親としての責任を果たす意思がないことを暗喩している気がします。目を向かい合って会話する、はじめ「会う必要はないわ」と言っていたミサトにはまだシンジ君と話す意思があった、サングラスOFFがその決意のタイミングと重なっている、ゲンドウはそもそも目を合わせようとする気がなかった…その後、電車パートでゲンドウの独白が始まりますが、そこで彼はシンジ君が成長した姿を見ます。その時のまなざしは、やっとシンジ君と向き合うことができた、そんな目だったように思えます。少なくとも、13号機戦の時のような、挑発的で、無駄なことを…とイキる父親ではなくなってます。
13号機戦…の話で続けますが、初めて見たときから、ひとつ奇妙なカットが印象に残っています。それはシンジ君が初号機に辿り着き、13号機から槍を奪い返したシーン。シンジ君が槍を手に取ると、槍の形が変わります。ゲンドウ「ほう、希望の槍、カシウスとなるか…」、シンジ君「父さん、もうやめてよ!」
…そのあと!一瞬、シンジ君が「はっ!?」として13号機の手を見る。すると、13号機の手にあるのはロンギヌスではなく、それもまたカシウスの形になっているのです。そしてすぐに始まる戦闘…あのカット。ほんと一瞬で、「13号機の手の甲には赤い聖痕があること」「ロンギヌスとカシウスでは槍の手前端の形が違うこと」を頭に叩き込んでいないと、マジで見逃してしまう描写です。
素人ながらに考えれば、「実はゲンドウの手にする槍も希望のカシウスだったが、本人はそれが絶望のロンギヌスに見えていた」ということですが、これはこうとも捉えられます。「ゲンドウの手にしていた槍は絶望のロンギヌスだったが、シンジ君にはそれも希望のカシウスに見えた」。どっちも同じことでしょうか?このシーンはまた別の問題も明らかにしています。それは、認識する人によって槍は形を変えるということ。であるならば、Qのあのシーン、二本の槍問題もまた別の見方ができそうです。 追記ここまで。


雑記

結局、エヴァのない世界を構築して、エヴァの世界が消えるというまさにその瞬間へと迎えに来てくれたのはマリでした。マリエンド。ぼくは悪くないと思うなあ。

と、いうのも。結局マリって何者なんでしょう?というところから始まります。

最後、ゲンドウの独白によってマリが冬月チームの一員であったことが明かされます。また冬月も彼女を「イスカリオテのマリア」と呼び、なんだかただならぬ関係であることも。

「イスカリオテのマリア」についてはこちらのブログさんが詳しく。まあおそらくこの通りなんだろうなと思いますが(自分で考える気ゼロ)、因果関係については逆です。つまり、「イスカリオテのマリアだからシンジとくっついた」のではなく、「シンジとくっつくから、イスカリオテのマリア」なんですね。伏線ってこと。だからこれ自体は、ぼくは「へー」って感じ。

彼女の正体についてもあまり興味はないかな。使徒だとかクローンだとか…それもずっと前に述べたように、そんなのは製作側の設定でどうでもなっちゃうことなので。ぼくが気にしているのは、テーマ上、彼女がどういう役割と描かれ方をしたのか、ということ。

一体なぜ彼女はシンジ君を迎えに行けたのか。思うに、マリは半分こっちの世界の人間として、描かれているんじゃないかなって。こっちってのは、現実世界、この令和時代のことです。つまりかかわるテーマは実写の精算の項になるんだけど…そうとも言い切れない。から雑記にしました。

ひとつに、歌。やたらハミングすることでおなじみですが、ぼくはあのシーンを観る度にすっごい違和感を感じます。いやいや、エヴァの世界にグランプリの鷹あんの!?って。シンで歌っていた真実一路のマーチが一番最新で1996年発表。セカンドインパクトが2000年なので、まあギリありえなくなはい。むしろグランプリの鷹も365歩のマーチも、ある種のネタというかお遊びぽい使われ方ですよね。(水前寺清子の芸名は東京マリになる予定だったという話)。その発想それ自体が、すこしメタ的。製作側に寄ったキャラであるように思えます。

ふたつに、劇中初めから「どこにいても迎えに行くよ」というセリフ。まるでエンディングを予見しているかのようです。この作品は、最初から最後まで「成長」の物語でした。シンジもレイもカヲルも、ミサトもゲンドウも冬月も、トウジもケンスケも、一介の整備クルーまでその成長が描かれています。しかしマリ、主要キャラだけど、成長したっけ?最初からアスカをサポートして、シンジ君を迎えに行くだけにターゲットを絞っていたかのような描かれ方です。マリとユイ同年代説が正しいとしても、それより年上の冬月センセが成長してるんだから、マリだって成長したっていいとは思いません?

※追記 ラスト予見についてさらに決定的なのは、アスカがシンジ君に最後の挨拶に戻るシーン。あの時なんで殴ろうとしたかわかる?と会話をする際、アスカは「これが最後だから」と言います。プラグスーツを着る時だって、白いスーツを「死に装束」と言って捨て、これが決死の出撃、恐らくもう生きて帰ることはない、と覚悟をしている様子です。ところがマリは、シンジ君に「君はよくやってるよ」と励ましの言葉をかけたあと、顔アップで「再見!(サイツェン、中国語でまたね!の意)」というのです。マリはことあるごとに日本語でない言葉を使いますが、ここで「さようなら」の言葉に中国語の「再見」を用いたのは、再見が字義として「再び見(まみ)える」の意味を持つからなのかなと思いました。「さようなら」にも「good bye」にもその意味はありませんから…ほかにも別れの言葉が「再び見える」の意味を持つ言語はあります(ドイツ語のauf Wiedersehenも動詞「再び会う」の意味)。
じゃあなんで中国語なん?とまで言われると、そこは演出諸々の事情があったんちゃう…っていう逃げ方でひとつ…サイツェン!って、歯切れよくて、かわいいじゃん?深読みオタクにならないためには、こういった割り切りも必要なのです。こう考えることで、冒頭の「どこにいても君を連れ戻すから待ってなよ、わんこ君」の言葉は、シンジ君をぶんたーに連れ帰す、という意味で終わるのではない、ということもはっきりして、初めからエンドを予見していたのではないかと考えることができます。 追記ここまで。

みっつに、やたらと匂いと胸にこだわる。最後の駅のシーンでも胸を当て、匂いを嗅ぐ。匂い、というのは現実にあってアニメにない感覚のひとつです。アニメは視覚と聴覚でしか物事を表現できず、触覚と嗅覚と味覚がありません。アニメーションはあくまで視覚と聴覚であたかも触覚と嗅覚があるかのように見せているだけです。最後のシーンでは、シンジに胸を当てて、匂いを嗅ぐ、つまり触覚と嗅覚のアプローチをしています。この感覚が現実世界チックであるように思えました。えっ味覚はどうしたのかって?しらんしらん。今なら4DXがあるぞって?しらんしらん。

匂い…でいえば、土のにおい/母親のにおいもこの作品では重要でした。しかし、シンジ君はこれらをあくまで受動的に感じている。マリは自分から触覚と嗅覚をアプローチしているところが、かわいいなって。

よっつ。最後シンジ君を浜辺に迎えに行ったシーン。ギリギリセーフ!と海に飛び込んだ彼女は最後のエヴァをプリプリプリンと消してしまいます。んなことある?シンジ君が槍を使って何とか成し遂げたことを、まるで指ぱっちんひとつでもしたかのような気軽さ。いくら彼女が特別な人間だからといって、あれは無理でしょ。尤も、あのとき既に世界は書き換えられていた、とも考えられますが。

さて、そう考えると、ぼくはどうしても彼女が「製作陣から派遣された救いの人」に思えてならないのです。まさに現実世界からエヴァ世界へとダイブするサルベージ部隊。その正体を隠しながらエヴァ作品へと入り、最後には無事にシンジ君を現実世界へと連れ出す。アスカとシンジを子ども扱いするのは、彼女が実は年増であるというだけではなく、製作側の心情が入っているのかもしれませんね。アスカの髪の毛を切るシーンなんて、愛情に満ちてる。

あとふつうにかわいい。マリ。めっちゃいいね。かわいい。いい。Goodだね。大好き。


※追記 この作品の捉え方について

昨日、友人と改めて観たところ、友人は「マリ=モヨコなんだ」という話を仕切りにしていました。確かにそれを匂わすシーンはいくつかあったようですし、庵野監督の境遇を考えるとそれもまた正しい解釈なのだろうとは思います。ですがやっぱり、ぼくはそういった作家論に立ってこの作品を見るのは、自分には向いてないな、と思いました。
ひとつに、シンジ君って、庵野監督その人なんでしょうか?いや、その人だとも、そうでないとも解釈はできることでしょう。しかし、もしその人であるとしたならば、彼を迎えに来たのがマリであるというこの終わり方は、作品全体をとてもさみしいものにしてしまう、そんな気がしました。別の友人はそれを「シンデレラストーリー」と評しましたが、まさにそうです。エヴァに人生狂わされた人がいるにも関わらず、監督は自身を主人公に投影して、それを今の嫁が迎えに来る…そのエンディングにはファンやキャラクターの救済はなにもないし、自分の妻に会いたいために人類を巻き込んだゲンドウと、やってることはなんら変わらないじゃない。8年かけて作ったものが、そんなに個人的で世界の小さいことかな?と。
ふたつに、ほかのnoteを見ていると、この作品に3.11を重ねる人は多いようです。先日某バンドのヴォーカリスト毒霧氏が書いた感想を読みました(やっと観れてよかったね)が、彼は3.11により近い人間だったこともあって、思うところが多かったようです。第三村でやたらと子供がフィーチャーされている点も、彼の考え方が一番しっくりきます。エヴァ3.11論に関して、ぼくには持てない視点をたくさんもっているので、ぜひ一度読んでみてください。
ぼくは3.11のとき宮崎にいたもので、すっごい失礼な話ではあるけれど、どこか遠い国の出来事のように感じていました。上京してから「東京も相当揺れた」という話を聞いて、かなり驚いたくらいです。だからなのか、「冒頭のシーンは3.11に対する創作物の在り方」というテーマを聞くと、「ははあ、なるほどなあ」とその時はじめてそういう視点に気が付く、それくらいの鈍さをもっていました。そんなぼくの鈍さは置いといて、毒霧くんの話を聞くと、じゃあなおさらこの作品はぼくたちの作品でなくてはならないだろうと。シンゴジラがそうであったように、シンエヴァにもまた3.11の影響があってもおかしくはないでしょうが、果たして、3.11のテーマを組み込む作品が、最後には自分の妻なんていう凡庸でエゴな締まり方をするかなって。それを周りが赦すかなって思うわけです。いまや庵野秀明は雇われアニメーターではなく、数百人の社員を抱える社長です。エヴァに関するインタビューよりも、会社運営に関するインタビューのがはるかに多い。ダイアモンド誌では、如何に彼が社員と興行に対して責任を負っているのかを知ることができます。彼はもはや自分の好き勝手に、自己完結の作品を作ることはできない、作ろうとはしないのです。私たちがひとたびこの作品を作家論的に評するならば、この矛盾はたちまち、私たちの前に高く高くそびえたつことになります。
マリのモデルは確かにモヨコかもしれない(彼女の人となりを知らないので何とも言えませんが)。でも、モデルがそうであるからと言って、この作品を作家論的に解釈すると、たちまちこのエンディングはチープで、個人的で、ぶっきらぼうで、他人への理解もチームへの思いやりもなく、置いてけぼりな作品になってしまいます。ですが、そうではない、つまり庵野がどうとかモヨコがどうとか、そんなことを全く解釈に介入させない、純然たるテクスト論で解釈するならば、つらつらとぼくが書いてきたように、この作品は酷くハッピーで、救われて、全てに蹴りをつける、ぼくたちの物語になると思うのです。ではそれをどっちに解釈するか…それはまさに鑑賞者の心の持ちようひとつ。まさにハーリングの鏡。答えはありません。であるならば、答えがないからこそ、リアリズムと落としどころを以てこの作品を「終始庵野のための作品」とするよりも、そこは希望を以て「ぼくたちの作品」としたいじゃないですか。そこで思い出されるのがマリの言葉。「そうやっていじけてたって、なんにも楽しいことないよ」であり、また認知者によって姿を変える、ロンギヌスとカシウスの槍なのです。少なくともスタジオカラーのみなさんは、ぼくたちにとって救いとなりうる船を差し伸べてくれた。あとはそれに乗る勇気と、信じる心を持つだけなのではないでしょうか。
ぼくはこの作品が本当に好きなので、ひとりでも多くの人の救いになればいいと、心からそう思いました。またあるいは、今はそう思えなくても、いつかこの作品があなたの救いになればいい、そう思えるような日がくればいいと思いました。 (追記ここまで)

おわり。顔も知らないあなたが、マジにここまで読んでくれたとしたら本当にうれしい。長くなってごめんなさい。意見聞かせてね。

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