二つの人生を分離して並行させるなんて
私人としての「私」
組織の一員としての「私」
たとえ同一人のことではあっても、それぞれは別人格と考えたほうがスケッチとして正確なんじゃないかと思っている。
藤原綾さんの著作「女フリーランス・バツイチ・子なし 42歳からのシングル移住」(集英社 2023年2月)のような一説がある。
「みんなひとりひとり話すと、大抵はいい人なのに、組織の肩書きをつけるとなぜか異なる引力が働いているような、社内には独特な空気が漂っていました。ある程度勉強してきた人達が揃っているわけだから、全員野球という言葉を知らないはずがないのに、同じ会社のなかで、人も部署も協力ではなく競争をしているような。そして、これは1度めの沼(筆者注:著者の中学受験時)と同様、競争しているのではなく、させられているのだと感じていました。」
「組織」は「集合知」。誰という特定のコントローラーが明確になっているようで、明確になっていない、それが「組織」。創業社長で大株主という人がいれば、別なんだろうけれど、それだって、何千、何万という「それぞれに意志を持つ人材」で集団的に生産を行うわけだから、仮に「独裁的」ではあっても、働き方にバラツキはあるだろうし、創業社長の大株主さんも、完全なる「統制下」はできても「形式的なもの」に留まるだろう。
「集合知」なんだから、判断を一任されている担当者は「組織の人」として働いている間は、「私人としての私」ではない。その人格を失って「組織の一員としての私」でなければならない。でも、その「私」は「私人としての私」を忘れられず「組織の一員としての私」との間で、身を引き裂かれる思いに悩むこともあれば、「組織の一員としての私」が、自分の中で肥大化し、家族に対してでさえ、冷徹な人間になってしまうこともある。
二つの人生を分離して並行させるなんて、人間にはできない。
政府のお役人も、役所を離れて一人一人に話しを聞けば、ホントに正義の味方って人が多い。でも、お役所の現状はあんな感じ。周囲の同僚を慮って「一所懸命」を憚っている感じでもある。いずれにしても「市民、国民のために働いたら負け」みたいなムードさえある。それが組織人としてのお役人。民間でも、顧客の利益より、自社の利益なんだろうな。情報弱者を騙すような商売もいとわないというか。
だから、組織に属して働いている時間は、誰と話しているのかわからない。
「みんな」という顔の見えない「人格」。その人格に向けて「忖度」をする。なんだかわからない状況。しかも能力に関係なく権限を持つことができる「組織」という制度が、さらに働く人を混迷に陥れている。
(なんで、この人が上司なのか。納得できるケースは、ほとんど無いんだろう)
「組織」という人格が、この国を、僕らの社会を滅ぼそうとしている。
「組織」の究極は「軍隊」だけれど、
私人としての「私」
組織の一員としての「私」
のうち、「私人として私」の部分を消去も分離もできぬままに、僕らは人殺しを命じられる。一生続くPTSDに悩まされるのは「私人としての私」だ。
でも
「組織」という働き方を急激に改められるとは思わないから、つまり、組織ワークのダッチロールの果てに、一度は、カタストロフを迎えるのだろうと思っている。
戦場に動員される可能性もある。
それでも、考えてみる必要はある。
少なくとも日本型「組織」というシステム。時代の要請には応えられなくなってきている。応えられなくなってきているからこそ、現状の「組織」は強引で「就業者の管理」は微に入り細に入りだ。戦場で泣くともうつ病を生産し、適応障害を量産してる。
たぶん「組織ワーク」の次が明確にできないと次の時代は来ない。次の時代が来る前に、僕らの疲弊は、この社会を支えきれないほどの状態になっているはずだ。
(同一人の中にある「就業者」と「消費者」の関係もそうだ。「消費者」としての自分の要求が「就業者」としての自分に過酷な要求をつきつける。こういう関係も見直さないと、こういうことから無限地獄は始まっている)
自分を分離するなんて、あくまでも理屈の話で、現実には「分離」は不可能だからね。小学生の頃の「授業中」と「放課後」って分けられて「仕向けられて」育ってきちゃったけど、「分離=当然」は、案外、異常なんだ。
「組織に属する」=安心・安定は、お金という収入の面だけの話でね。「心」の面では、ずいぶんタフだったりするんだ。