ぢっと手を見る
団塊の世代とか、僕らの世代とか。工業生産時代に生まれた世代は、未だに「生徒になる」で安心する人が、結構いる。それで賢くなれるような気がしてね。
投資セミナーに通ってるとか、資格取得を目指して夜間の専門学校に通うとか、オンラインな感じとか、そういう類い。
「学校」に信頼を寄せてる。
でも、工業生産時代ならまだしも、知価(情報)生産時代になると、誰かが整理してくれた情報を「憶える」ではダメなわけで、メモを取る感じで教室に通っても「次の時代の人材」になれるかどうかは微妙…
というか、無理かな。
これからは、誰かが整理してくれて「ここが大切だから憶えておいてね」というところを素直に記憶するという手法ではなく、自分で本屋さんや図書館に行って、悪い資料にもぶち当たりながら情報の整理力を身につける、その上で、自らの経験を加味しながら「新しい情報」を創り出す、そういう自分をつくらなきゃならない。
そのための「ロス」にお金と時間を使った方がいいというのが今様。
もちろん、若い世代には、いわれなくてもそういう「体当たり」な道を選んでいる人もたくさんいる、すでにね。
でも、工業生産時代に生まれた親たちの影響下にあって、昔ながらの「真面目」を貫いちゃってる若者たちも少なくない。
だからこそ、ホントは、親の世代が変わらなきゃいけないし、変われなきゃ失敗するんだっていうところを体現しなければならないんだけど…
でも、まぁ
もうしばらくすると、放っておいても「失敗」の方は現実になっちゃうのかな。
僕らがどう思おうと工業生産時代は(粛々と)終わっていく。「憶えて慣れる」仕事は容赦なくAIが奪っていく。情け容赦ないんだ。時代は待っててくれない。
1961年生まれの僕に「お掃除おじいちゃん」の仕事はないんだ。たぶんお掃除ロボットのプログラムのバグを修正するみたいなね、そういう仕事しかなくなってるんじゃないかな、僕がじいさんになる頃には。年金じゃ暮らしていけないのに。
Amazon残酷物語みたいな倉庫仕事も、それゆえに「無人」になちゃってるんだろう。
知価生産か、AIを凌駕する技芸か、命がけの仕事か、
労働者階級に残されている「収入源」って、そのうち、そんな感じになるのかな。
ぢっと手を見ちゃうね。