「農」は嗜み/私小説のような公共政策
その是非はともかく
「行政」つまり役所が心許ない。
自治体が行う、ごみ収集やバスなどの公共交通機関の運営など、直接的な「行政サービス」だけでなく、政府は、この国の「社会」のあり方、農林水産業、工業などの「産業」のあり方をコントロールしている。
「教育」だってそうだ。
その役所がダッチロール状態に入って久しい。
実は政治家っていうのは「大いなる素人」で、立法の内容だって、お役人やお役人のOBが担っている。たまに号令をかける政治家さんもいるけれど、法律をつくれるほどの知識を持つ人は滅多にいない。
でも、今は、その官僚にも頼むべき人がいない。
僕は40年ほどを公共政策の現場で過ごしてきた。主に横浜市をはじめた「自治体」のそれだが、運輸省(当時)で立法化(制度設計)を含めた「仕事の進捗」を伝える省内季刊誌の編集長をやったこともある。
中心市街地の活性化に関する法律(いわゆる「中心市街地活性化法」)では、その立法化の実務にあたっていた政府官僚OBたちの手伝いをしていたことも。
政府は、2回目の安倍内閣になった頃から、横浜市役所は菅前首相が市政を牛耳り始めた頃から、ゆっくりと、でも、大きく変質し始めた。
気がつくと「あの人は公共政策に長けている」とされる実力者が、役所や役所周辺からいなくなり、「え、あの人なの」という人が幹部に抜擢されるようになっていた。
「ふるさと納税」「地域おこし協力隊」あたりになると、官僚たちによる「制度設計」自体に「問題あり」とされる政策も続くようになった。
自治体は、メジャーなところほど自己解決力を失っていった。
「だめだな、こりゃ。この国」と思い始めたのはこの頃だ。食料の自給から考えなきゃダメだと思った。
(警告は届かなかった。役所の中だけでなく、市井の人々は尚のこと「馬耳東風」だった。「まぁ、飲めば」といわれるのが関の山だった)
その頃、不摂生が祟って、僕は倒れた。ストレス大魔神でもあった。
仕事を削って時間ができたので、改めて「公共政策学」で大学院に進学した。当時、役所のあまりの変質ぶりに「自分が正しいと思うこと」が、本当に「正しい」かどうか判らなくもなっていたから。
(変質していく役所の中で、この頃、いよいよ、僕には「味方」がいなくなってもいた。孤立無縁な感じ)
でも、進学した大学院では、恩師のおかげもあって、確信というほどではないが「ああ、少なくとも間違った方向ではないな」と思うようになっていた。夜学の大学院で「公共政策学」…というわけで、すでに自治体の職員だったり地方議会の議員という同期生もたくさんいて、各地の「自治体」の現状もわかった。
やっぱり、そうか。
行政学ではなく公共政策学を選んだのは、ほぼ偶然だったが、よかったと思うようになっていた。役所に提案しても間に合わない。行政がダメになっていく状況の中で、むしろ「私立の公共政策」というスタイルを確立していくことの方が急務なのでは。修士課程を修了する前後で「あぶりだし」のように、そう思うようになった。
(横浜市役所の場合、身内をかばうために裁判の傍聴席を職員で埋めてみたり、連続して自死する生徒が出ている小学校がな半ば放置だったり、芯から腐ってるところがあって、首長さんや議員さんを代えるだけでは焼け石に水なところがある。刷新は必要だが、急に正常化するわけではない。だから備えも必要だ)
同じ横浜市内でも「都心」から「郊外」に居を変えた。僕は自宅で自営だから、ほぼ生活全部の移住だ。
その理由。
ひとつには東日本大震災の経験から(横浜でもわが家では本棚10本以上が全部倒壊した)、都心でプリンの上に住んでいる空間的な危うさと、多様な人々が日頃のコミュニケーションもまばらに暮らしている被災時の人的な環境に関する恐れと。ぼーっとしている、うちの奥さんを念頭に置くと、そういうことから「都心は離れよう」を考え始めた。
(戸建てを中心にする郊外型の住宅街なら
コミュニティが安定しているところもあった)
そして、もうひとつ。
「農とともに暮らしていたい」ということ。
とにかく行政が心許ない、だから「食い物」を自分で確保しなければならない。何かあれば「都市で買い食い」っがとても危ういことは、NHKの連続テレビ小説「虎に翼」にも描かれていたように、昭和20(1945)年前後のこの国は、すでに経験したことだ。
改めて自分たちのためのソーシャルキャピタルを積み上げたいということのあった。
「近隣の生活互助」だって、官製に丸投げは「愚」だ。すでに「空間」を単位に近隣の関係を結んで行くことは難しいし、未だに行政は有効な対応策を見つけられていない。自治会や町内会は前の大戦時の行政の国民統制下請け機関だった「隣組」の看板の架け替えで、実質的な「互助」を育んで行く構造になっていない。あくまでも行政のための機関だ。
行政から「自助」「共助」を求められる筋合いはないが、生きていくためのセルフサービスは必要だ。
そういうわけで
僕と奥さんが耕すだけでなく、「農」を紐帯に徒歩圏内に生活互助の関係をメイキングし、やがては、近隣が自立していくための「外貨」を稼ぐ回路をつっていきたいと、構想と実験を繰り返している。
もちろん準備には時間をかけたが、実行に移して数年で、今は「自給」に可能性が見えてきたのと、近隣の農家さん、奥さんのともだちによる「協働」も形が見えてきた。
そんなとき、宮台真司さんに「界隈」という提案があるのを知った。
僭越ながら共感できると思った。
僕の実力では横浜市役所でも大き過ぎた。それなりに成果を上げられることができても、東京ドームにパチンコ玉を投げ入れるようなものだった。
だからこそ
近頃のことは「負け惜しみ」「ごまめの歯ぎしり」みたいなものだなと寂しく思う部分もあったが、宮台さんの考えに「そうでもないか」と思えるようになった。
僕にとって、これは決して小さなことではなかった。
宮台さんの界隈塾 ↓
宮台さんの界隈塾
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還暦を過ぎて、自分という存在の小っぽけさが身に沁みている。
でも、今は、この「小っぽけさ」を愉しもうとも思っている。
久しぶりに清々しさを感じてもいる。
重い荷物を下ろした感じ。
こんな時代に「これから」が楽しみであるなんて
贅沢なことだなとも思っている。