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消費材化/システム化

ブックオフは「本」を消費材にしてしまったという意見がある。でも、そんなこと言ったら、1970年代に郊外から始まった「ファミリーレストラン」は「食事」を、ドトールやスタバなどキャッシュ・オン・デリバリーのカフェは「喫茶」を、工業生産なシステムに置き換え、つまり「食事という時間」や「喫茶という時間」を、消費材にしてしまったんだろうと思う。
回転寿司だって「寿司」を消費材にした。システムはフォード・スタイルを踏襲している。
もちろん、吉野家みたいな牛丼チェーンもそうだ。あそこで、本質的な意味で食事をしている人は少ない。お腹が空いたから供給される食べ物を食べているだけ。代替行為だ。駅そばも食券買って処理されて、とりあえず空腹を満たして店を後にする。そういう店が少なくない。

(そうじゃない店はどんどんなく無くなっている)

つまり「消費材」化だ。でも「なんでも鑑定団」なんて、古美術を消費材にしてしまった。

つまりね。

「消費材」化はブックオフのせいじゃない。彼らはニーズに応えただけ。そう望んだのは、他ならぬ「消費者」だ。

で。そういう消費者をつくったのは学校教育だ。
フォード・スタイルの流れ作業に就業し、均一な量産品をこそ安心して購入する消費者になる。フツウで無難な「みんな」に属して安心する。そういう僕らは「学校教育」の賜物だ。

「学校教育」は「食事を愉しむ重要性」を教えなかった。むしろ仕事の効率を上げるための早飯喰いを推奨した。だって、小学校の学校給食がそうじゃないか。

僕らは消費者だ。消費は得意だ。だからファミレスが助かるし、回転寿司が助かる。付け台を前にして「何を握りましょう」と言われるより、すでに製品化された寿司をチョイスされた方が気が楽なのだ。店側も熟練の職人じゃなくて、きのうきょうの一般人で営業を成立させた方が褒められたりする。だから、イマドキのラーメン屋(チェーン店)は、あらかじめ工場で加工された半製品を、店でプラモデルをつくるように組み合わせるだけだ。

プレカットの「住居」も、あらかじめ工場で加工された部材を現地で組み合わせるだけ。だから、僕が子どもの頃のように、大工さんが現地で鋸を引いたり、鉋をかけるということはなくなった。だから修行はいらない、誰でも住宅建設に携わることができる。そして「大工さん」は絶滅危惧種だ。

「消費材」化は、システム化、仕事のアマチュア化とセットだ。それで大衆向けの「値頃感」をつくり、楽ちんな就業を提供していく。でも「値頃感」はつくれても、就業の場はつくれても、技芸を殺していくことにはなる。つまり「将来」を食い尽くしていって、今を幸福に…というわけだ。

ブックオフに何年勤めていようが、あそこで古書店をやっているのはシステムなので、古本屋さんになるための修行はできない。スタバも同様だ。何年勤めていようが、それでカフェや喫茶店を開くための修行になるわけではない。

今や、どんな業種・職種でもそうだろうな。例外はない。だって消費者に技芸の育成は望まれていない。そんなことより「値頃感」だし、手っ取り早い勤め先である方が喜ばれる。でも、それだけに、僕らは「いつでも交換可能な部品」にされてしまう。

つまり消費財化、システム化を止めなければ、この国に将来はないということだが、自分楽ちんに、ストレスなしに生きていこうとするなら、その選択は、自分の幸福と矛盾する。

だから高い確率で、ここはこのままだ。行き着くところまでは終わらない。