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津波てんでんこ

僕はジョン・ダワー博士のように、この国の戦前と戦後を地続きのものだと考えている。

1920年代に現れた岸信介氏を中心とする、いわゆる革新官僚といわれた勢力が絵を描いた「統制経済」つまり戦時体制は、岸信介氏がA級戦犯から生還したことに象徴されるように、今度は合衆国という後ろ盾を得て、表向きにのイメージとしては「刷新された戦後」を描きながら、その実、変わらぬ「行政主導」の「統制経済」な体制を維持して、波風はあったにせよ、勢力を維持して、岸氏の孫であるところの安倍晋三氏まで、この国の1945年以降をも牽引してきた。

ただ、こういう考え方に立つのはマイノリティだろう。

「若者殺しの時代」(講談社新書/2006年)の著者=堀井憲一郎氏は、「1945年以降」という考え方に立って、このシステムの黄昏を論じられている。

堀さんはこう記されている。

とりあえず、僕たちの社会は、無理を承知でいまのシステムのまま行くことにした。
となると、残念ながらこの国のシステムは枠組みごと終わってしまうだろう。そういうものだ。無理に続ければ、組織は滅びる。人類の理想ともいえる、その到達点の高さに気づかず、まだ発展するつもりになっている社会は、見えないそこのほうからゆっくりと沈んでいく。

たぶん。僕と堀さんとは同じものを見ている。

時期については

早ければ2015年を過ぎたころに、大きな曲がり角にで出くわしてしまう。

と。

安倍晋三氏が二度目の首相になるのは2012年だ。ここから、岸信介氏が描いた「国家像」の仕上げにかかる。「進め一億火の玉だ」から「一億総中流」を経て「一億総活躍社会」だ。

(2011年には松井一郎氏が大阪府知事に、大阪市長に、橋下徹が当選してもいる)

でも岸信介氏はSNSがあり、AIがあってチャットGPTがあって、つまり集団生産がmustではない時代は見えていなかったろう。国民的な統制が効けば、生産性が上がる時代ではないし、駆け抜けようとする情報生産者を「非国民」的な檻に入れてしまうのなら、むしろ、生産者は国外に流出してしまう。すでに、国境で囲って策を打とうにも、その「国境」があいまいになり、情報統制だって、効くようで効かない時代だ。海外は、この国の異端を歓迎する。

だから「一億」って考え方は時代錯誤なんだ。

最近、戦後を支えてきた「アメリカ依存」も風前の灯だ。
堀さんも、同書の中に、こう記されている。

不思議で居心地のいいシステムが続けばいい。アメリカが世界で一番強く、アメリカが世界の警察であり続け、日本がアメリカ東アジア戦略の基点であるかぎりは続けられる。でも、そんな不思議なシステムを三百年も四百年も続けていくわけにはいかない。どこかで終わる。残念ながら早晩終わるだろう。

だから本書は、当時の若者たちに

すきあらば、逃げろ。一緒に沈むな。
うまく、逃げてくれ

と結ばれる。

僕は、岸さんたちによる「統制」も、堀さんより長いスパンで捉えている。もう百年になるんじゃないだろうか、だから、国民は無意識に、飼い慣らされていると持ってる。今も「隣組」の思い出を嬉々として語る、うちのオフクロと、そのオフクロに育てられた僕。そんなスターダードから「非国民」の道を選ぶのは、いたって少数だ。

だから、声は大きくならない。

多数決による民主主義を動かすのは難しいだろう。

津波てんでんこ だ。

自分自身で逃げよう。ホントウの津波ではないから、家族など、大切な少人数で逃げるのは可能だろう。

でもね。「津波てんでんこ」だ。

マスクを外すかどうかを世間に問うてるようじゃダメだ。