見出し画像

グルメ

「グルメ」という言葉が汎用されるようになったのは1980年代も半ば以降のことだったという。

高度成長期も成熟期から爛熟期へ
でも、まだ、この国は工業生産時代だった。

「グルメ」というくらいで、食の「質(しつ)」にこだわろうとしたのに、テレビも雑誌も「ラーメン店、全国3,000軒を食べ歩いた」と「量的」な論拠を並べ立てて「オーソリティ」をメイキングしようとした。

つまり

3,000軒のラーメンを食べ歩く前に、その人「美味しい」がわかる人なのかどうかというところについては「評価ナシ=白紙」の状態、なんの説明もない。でも、視聴者、読者も「3,000軒」で納得して、彼が勧めるところを複写するように、現地に赴いて行列をつくった。オーソリティを教科書にして、教科書を復誦するように店を選んだ。

「行列」自体も指標になった。

ホントウは「私以外私じゃない」ので「美味しい」も「人それぞれ」で自然なのだが、多くの人=みんなが支持するものに従った。

何事も「量」。「みんなの支持するところ」だったわけだ。

工業生産は集団生産が基本だ。「みんな」に合わせなければならない。
命令も「数」でくる。売り花目標も「金額」だ。

だから、自分の「グルメぶり」を自慢するのも「その店なら何度も行ったことがある」と「量的」で、味を言語化するような「食レポ」は下手くそだった。

(語彙にも貧しかった。何事も量的に説明しようとするのが常だったから)

知価生産時代になれば「私にとって至上に美味しいと思うリンゴをひとつ」というオーダーがありうるようになる。でも、工業生産時代のオーダーは「見た目、傷がついてないリンゴを100個」というものだ。

味は関係ない。あたりもハズレもあるという状態。そこは放置。
こういうことに疑問を持たなかったのが、工業生産時代の僕らだ。

でも、僕らは、こういうことを卒業しかかかっている。

(「無意識に」なのかもしれないけれど)

だから、全国津々浦々に、小さな製塩所がある。もちろん海外に「美味しい塩」を求める人もいる。どこのスーパー、コンビニだって、塩を売っていないところなんてないのに。

「フルールドセル(FLEUR DE SEL)」はフランス語で「塩の花」を意味する。伝統製法でつくられた塩(天然海塩)。確か、日本でも「伯方の塩」さんが同名の製品販売していたと思うけれど、写真は、フランス南部地中海沿い産のもの。

小さな農家さんの自主流通の米や野菜の通販や、漁師さんによる産直などが「お取り寄せ」に1ジャンルが立てるくらい、僕らは「質」を求め始めている。「既製品」ではなく「私だけの美味しい」を積極的に求め始めている。だからもう知価生産時代はとっくに始まっている

そのにAI(生成AI)が登場した。衛星が全世界を繋ぎ、ほとんどすべての情報を掌中にし、持ち歩くことができる。

近く「量的」はAIとロボットの仕事になる。

僕らに残るのは「美味しい」を創ったり、味わったりに代表されるされるような「右脳的な力量」が試される仕事だけ。「絶対0度のレンズ」を磨き出すのは人間の技能職だけといわれているが、これも数値やノウハウにできない「右脳駆使な手業」だ。

僕らの手元に残るのは、こんな仕事だけ。

「量的」を卒業できなければ「これから」はどんどん厳しくなる。
「マニュアル・レーバー」を「憶えて慣れる」も同様だ。

そもそも「これから」必要とされる能力には教科書なんて書けないものが多い。逆に言えば「教科書に書けること」はAIにしてやられる。定型のビジネス文書に毛の生えたようなものなら、チャットGPTにあっけないくらいの回答を出されてしまうみたいに。

毎日通っても「ドコモのポイントカードはありますか?」「食べ終わったらトレイはそのままで結構です」を繰り返されるハンバーガーショップでも、接客スタッフさんは、数年以内にはアバターとタッチパネルに淘汰されてしまっているだろう。

「グルメ」という趣味や余暇の話じゃない。仕事に直結する話だ。

それにしても、「孤独のグルメ」の井之頭五郎さんみたいな、「味」の言語化能力があれば、きっと生き残れるはずだ。
本業の輸入雑貨の輸入の方でも、そうだと思う。

輸入雑貨も知識量じゃなく、状況にあわせたコーディネートの能力だし、勝てるサプライ・チェーンを構築していく仕事も「量的」なものではなく「知価生産」な仕事だからね。