見出し画像

言葉泥棒

「サークル」という言葉。そもそもは共産党の指導下で行なわれる極めて政治的な文化活動を行う「単位(ひとつのグループ)」を指す言葉として、わが国に輸入されたのは「戦前」って言葉なんだそうだ。
それが僕が大学生だった1980年代前半には、すでに「ゆるゆる/いい加減」な遊び仲間の集団であり「合コン」な感じに連なる男女交際な場でもあるという、そんなイメージの言葉が「サークル活動」だった。部活のゆるゆる版というか。

一方「ドラフト」といえば、プロ野球の登竜門なイメージだけど、本来は「徴兵」というもっと深刻な意味で使用されるのが「ドラフト」。「ボランティア」も、慈善事業に参加するんじゃなくて、志願して自ら兵士として戦争に参加すること=志願兵。ウクライナのことを伝える映像に登場する志願兵も、自らのことを「ビランティア」と紹介している。

わがくにでは、それが「外来語」であることもあって、我田引水に、意味を(無意識のうちに)すり替えちゃうんでしょう。それも、ずいぶんとファンキーに緩い感じに。

庶民、恐るべし…

ただ、牧歌的だなと笑っていられるうちはいいんだけど、こういう性質を上手に利用する策士もいて、そのうち「防衛装備品」な連合艦隊が横須賀あたりを埋め尽くしていたり…

「汚染水」なのか「処理水」なのかもそうでしょ。

形骸化はおろか看板だけ同じだが中身は全然違うとか、恐ろしい中身でも看板次第とか…

「言葉」について、こだわりがなく、「だいたいこんな感じでしょ」という我田引水な解釈で終わってしまう性質を卒業できない限り、

騙されっぱなしで終わるんでしょうね。特段、政府に限ったことではなく、民間企業にだって

「まちづくり」とは、よい「まち」を「つくって」いくことである。「つくる」とは、ハードの施設だけでなく、生活全体のソフトを含んでいる。

これからの「まちづくり」の課題は、「人が住むに値する場」をどうやってつくり、維持できるかだ。

田村 明 著「まちづくりの実践」(岩波新書)1999年より

これが、あたかも「空間」を高層化する建築な感じに「まちづくり」になっちゃう。「ハードの施設だけでなく、生活全体のソフトを含んでいる。」なら「まちづくり」が不動産屋さんの仕事になるわけないでしょ。否。「まちこわし」を「まちづくり」といっちゃってるような。

僕ら騙されてるのにも気づいていないだけなんだろうね。