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カレッジフォークからJ-POPへ
1966(昭和41)年のヒット曲「若者たち」。この楽曲を唄ったのはブロード・サイド・フォーというフォーク・グループ。このグループの中心にいたのが黒澤久雄さん。黒澤明監督の息子さんである。彼を含めメンバーは、当時、大学の学生だったので、彼らをして「カレッジ・フォーク」というジャンルで呼ばれるようになった。
同じ1966年、やはり大ヒットした「バラが咲いた」を唄ったマイク眞木さんは、青山学院の中等部・高等部から日芸。父上は高明な舞台美術家で、最初は本テイク前の「仮歌」を入れるバイトだと思って、レコーディングに臨んでいたそうである。
「バラが咲いた」は浜口庫之助の作詞・作曲によるものだが、眞木さんが、すでに1963(昭和38)年にはモダン・フォーク・カルテットというフォーク・グループを結成していたこともあり、彼も「カレッジ・フォーク」の一翼を担ったとされる。
(そういえば森山直太朗さんの母上、森山良子さんもカレッジ・フォークの人だ。良子さんの父上はジャズ・トランペッターの森山久さん、お母様はジャズシンガーの浅田陽子さんだ。確かデビューには黒澤久雄さんが絡んでいるはずだ)
この「カレッジ・フォーク」に、1960年代末、学生運動とともにあった岡林信康、五つの赤い風船、高田渡、ディランⅡなどの「関西フォーク」にあったような、世の中にレジストしたり、反戦へのメッセージなどは感じられない。
若者たち
君の行く道は 果てしなく遠い
だのになぜ 歯を食いしばり
君は行くのか そんなにしてまで
君のあの人は 今はもういない
だのになぜ 何を探して
君は行くのか
あてもないのに
バラが咲いた
バラが咲いた バラが咲いた まっかなバラが
淋しかった僕の庭に バラが咲いた
たったひとつ咲いたバラ 小さなバラで
淋しかった僕の庭が 明るくなった
「若者たち」は、あえていえば「青春」のイメージなんだろうし、「バラが咲いた」は、「恋愛」メルヘンなのかな。でも赤裸々な生活感はみじんもない。たぶん、黒澤さんも眞木さんも昭和30〜40年代初頭にして、苦学とは無縁の家庭に育ったことに拠るのだろう。黒澤さんは、グループの練習は家でしていたとおっしゃっていたが、当時、そんな「家」は滅多にない。
こんな家に育った若者には、生活感がなくて当然だとも言える。
本物の「中流」=「ミドル」だったんだろうな
しかも「文化芸能」の分野に大きなコネクションを持つ父上がいる家庭だ。メジャーな音楽制作会社も身近な存在だったかもしれない。ダメモトな感覚で気軽にやれたのだろう。最初から肩の力が抜けているのだ。
まだ、フォークソングも狭い、労働者階級にしては上流のものだった。市井の若者にとっては「遠い憧れの世界」から聞こえてくる音楽だった。
1970(昭和45)年、大阪で(前の)大阪万博が開催される。この国の高度成長の絶頂期だ。
そして、1972年、吉田拓郎さんの「結婚しようよ」が発売され、翌1973年、かぐや姫の「神田川」が発表される。12月には井上陽水さんのアルバム「氷の世界」が発売され、この国のLPレコードとしては初めての100万枚のセールスを達成する。
彼らのフォークソングには、関西フォークにあったようなレジストも反戦のメッセージもなかった。あくまでも私小説だったし、吉田拓郎さんが描く歌詞については「日本の歌謡曲(歌謡曲ではないけれども)を絵日記にした」といった評論家もいた。
一部の人たちのものだったフォークソングを「経済の高度成長」が市井に行き渡らせたのだろう。でも、そういうことと引き換えに、全ての風は「東京から吹いてくる」ようになった。特に、若者文化の情報はテレビのキー局、雑誌社が集中する東京に集約し、まだ、どっぷり工業生産時代だったから、全国津々浦々で、東京から発信される情報を、若者がこぞってコピーしていた。
そういう時代だった。
だから、吉田さんやかぐや姫、井上陽水さんたちは「上京者」だった。
吉田拓郎さんは広島から、かぐや姫は大分から、井上陽水さんは福岡から上京してきた。黒澤さんや眞木さんのように東京の山手育ちではなかった。
でも、だからこそ、彼らに共感する人は「塊」になった。東京に隣接する自治体でさえ独自性を失って「地方」になっていく時代だったから。
1973年9月には文京公会堂で「はっぴいえんど」の解散記念コンサートが行われている(翌1974年、ライブ盤として発売)。
「はっぴいえんど」は、細野晴臣さん、大瀧詠一さん、松本隆さん、鈴木茂さんによるバンド。フォークではなくロック・バンドだが、後に「J-POP」といわれる系譜の嚆矢となるグループだ。
彼らは上京者ではない。
大瀧さんは岩手の出身だけど、細野さんと松本さんは港区、鈴木さんは世田谷区のご出身だ。また細野さんのおじいちゃんは、あのタイタニック号に乗船されていて生還された方だ。
当時は、いかにも早すぎたんだろう。伝説ではあってもメジャーではなかった。彼らの音楽にスポットが当たるのは上京者の二世族が東京で思春期を迎えて以降、つまり、新しい東京人が多数に達してからの話しだ。
そういうことが一定のボリュームに達して、ユーミンが生まれ、松本さんの作詞が歌謡界を席巻した。
(ユーミンの「ひこうき雲」の発売も1973年だが、当時は、決してメジャーではなかった。荒井由美ではあってもユーミンではなかった)
J-POPの台頭とともに、フォークソングはどこかに消えてゆく。吸収されてしまったというか。そして、日本中の都市から地方色が消し去られ、全国津々浦々に「ファスト風土」は蔓延した。どこに行っても「無印」があり、スタバがあり、マクドナルドがある。「中流」も「一億総中流」なんて言葉に流されて「気分」として、この国中に広がった。
レコード会社にデモテープを持ち込まなくとも、自分で世界に向けて発信できる。しかも「上京」する前に、自分の住む街が「ミニ東京」だ。
世界市場からみれば、J-POPにはカルトだ。そういう意味での「地方色」がある。
これが、今後、どうなっていくかだ。
松原みきさんの「真夜中のドア~stay with me」に再び光を当てたのは、インドネシアのユーチューバー=Rainychさんだ。ヒジャブをつけた彼女が美しい歌声で「真夜中のドア」を唄った。
作詞家、作曲家、唄い手、あるいはシンガー&ソングライター
やっぱり、そういう才能に集約していくのかな。
でも、どこの家に生まれるか、どの土地に生まれるか。そんなことに縛られない方がいいに決まってる。もちろんプロダクションやプロデューサーとのコネがあるとかないとか、彼らの意向に沿わなきゃいけないとか
そんなことからも自由になれた方がいいに決まってる。
ただね。どこへ行っても「ファスト風土」で、どんな歌をつくろう。
それだけは、少し心配だ。