見出し画像

「ぼーっと生きてんじゃないよ」 か

できるだけ「楽(らく)」に働き、日々の買い物は便利に済ませ(つまり楽で)、水を飲むにもトイレに入るにもノーストレスで自動制御がいい。

(井戸まで水を汲みに行かなければならないのがスタンダードだったんだし、僕が生まれた頃はヨコハマの都心でも定期的に「汲み取り」をしなければならないトイレは残っていた)

仕事だって、するべきことがマニュアルに書いてあって、そのとおりに業務を処理すればいい。目の前にお客さんが来れば、誰かがつくった選択肢の中から商品を選ばせて、マニュアルどおりに商品を手渡せばいい。
だから、自分でチームワークを組む必要もない。そういうことは、あらかじめ職場にデザインされている。
家を建てる大工仕事だって、工場でカットされた部材をプラモデルを組み立てるように組み上げていくだけ。何十年の「修行」は要らない。

気がつくとそうなっていた。

ものいわぬレジやカフェがあたりまえになってしまえば、そこで働く人も、来客も「お愛想、言わなきゃ」から解放される。

世情に疎くても、全自動な感じで社会システムは作動している。就業先で、与えられた業務を、前例かマニュアルに従って処理し、スーパーかコンビニで買ものをすれば、彼が独身者なら、あとは自由時間だ。

「楽ちん」を優先するなら、システムの部品になるのも悪くはない。人間関係を含め、面倒なことは「システム」が代行してくれる。

でも、そういうことって「孤独」とセットだ。煩わしい人間関係を切っちゃうことでもあるから、もう一回、元に戻そうとしてもキャリアがないから、人付き合いは下手くそだ。

しかも、「楽ちんな仕事」を優先すれば、自分に特筆的ではなく、誰にでもできる仕事ばかりを選んできていることになるので、「システム」に捨てられたらどうしようっていう状態に置かれることにもなる。

特に高齢になってから。

AIがさらに優秀になっていけば「楽ちんな仕事」ばかりでなく、ノウハウが確立されている仕事の、ほとんど全てが、彼らに奪われる。

残るのは、ほんとうに創造的なこと、見たこともなかったものを創りだす仕事だけだ。アンディ・ウォーホールみたいに、ただのキャンベルスープの缶をアートにしてしまう力だ。

そんなのマニュアル・レーバーの繰り返しから出てくるわけがない。

どうしよう。急に言われてもな。

でも、だいたい「時代」は急に言ってくるんだ。
昭和20年の8月14日までと15日以降では大違いだったように。

まぁ、「予兆」っていうのは感じられるもんなんだけど。

今だって、そうだけど、昭和20年のときも前年から連日のように空襲が続き、都市という都市は焦土と化し、近所でも戦死の公報が届く家は続き、配給では食べていけなくなる。

だから「敗戦」を覚悟する人は少なくなかった。

なんだろうね。

この国の人は「公式発表」があるまでは動かない。

でも「公式発表」があってからでは、やっぱり遅いもの。うちのひいばあちゃんも、本当に「死ぬかと思った」のは、戦争が終わって空襲がなくなってからだという。
ひいばあちゃんはアメリカとの戦争が始まる前から疎開先を特定し、占領軍がヨコハマにやってきた後は、彼らのキッチンにわたりをつけて、闇市で一山当てたんだけど、それでも

「死ぬかと思った」らしい。

時代が急速に変化するときって、そんなもんなんだろうと思って覚悟と準備をしている。