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パンとバラ稽古場レポート③ 物語の再解釈と砂のお城
以下は、12月のとある日、演劇ユニット・趣向の12月公演『パンとバラで退屈を飾って、わたしが明日も生きることを耐える。』の稽古を拝見したレポートです。
この作品には、過去に暴力をふるわれた人、現在精神障がいを持つ人が多数登場します。
もしも読んでいて体調が悪くなるなどありましたら、どうかご無理なさいませんよう、お願い申し上げます。
また、内容に言及する箇所もございます。事前に知りたくないという方は、ぜひご観劇後にご覧くださいませ。 (浅見絵梨子)
あらすじ
コロナ禍の合間をぬって、その読書会は行われている。
本を読むことに慣れているわけではないけれど、人生が退屈すぎて、退屈はほとんど恐怖で、わたしたちはここに来る。
カッターを人に預ける。クレジットカードも人に預ける。
『人形の家』を読んでおしゃべりをして、
『サロメ』を読んでおしゃべりをする。
そしてわたしたちは初めて「演劇」をはじめる。
ヨカナーンは「やばい支援団体の人」
すこし前、 本を読んだことがない32歳が初めて「走れメロス」を読む日 という記事を読んだ。ツイッターで話題になっていた ようなので、ご存じの方も多いかもしれない。
読み手であるみくのしん氏は、相棒のかまど氏を唸らせるほど豊かな、かつフレッシュな感受性でもってかの有名すぎる古典を見事に読みきり、
最後には涙を流しながら、
これは……もう……
月9でやった方がいい
と吐露し、その姿が多くの読者の心を動かした。
『パンとバラ~』の台本を読んでまず驚いたのも、登場人物たちのあざやかな「物語の解釈」だった。
ガンマ いや、まじ、この⼈頑張りましたよね
イプシロン モラ夫、ざまぁだよね
※モラ夫:言動や態度といったモラルによる精神的苦痛をパートナーに与える(モラルハラスメントを行使する)夫、の意。対義語は「モラ妻」。
これは『人形の家』の感想。
こういった、現代語というかネットスラングと呼べばいいのか、非常にラフな言い回しを使って古典とか文学とか呼ばれるものを評価(表現)するひとは、かっこいいなあといつも思う。
それだけ物語を自分に引き付けて捉えられていることの証左であり、
吐き出された言葉の背景に「今この時」を生きるうえでの苦悩や、これまで歩んできた道のりが自然と透けて見えるからだ。
だがしかし、『パンとバラ~』の登場人物のひとり、デルタ(KAKAZU)の感受性は、このような素朴な賞賛のさらに先を行くものだった。
上演台本(2022年更新版)、9ページ、14行目。
イプシロン 預言者の方は?
デルタ ……支援団体の人みたい
この発想は自分の中にはまったくなかったので、何かしらの感想を抱く以前に、ただただ、びっくりした。
預言者とは、『サロメ』でサロメの求愛を拒み、首を斬られるヨカナーンのこと。たぶん、ヨカナーンもその場にいたらだいぶびっくりしたと思う。
『パンとバラ~』の登場人物の多くは、精神に(かぎらずだけれども)傷を負うことで生活に支障をきたし、何らかの支援を他者に受けたことがあるか、現在進行形で支援を受けている。
ふだん「支援団体の人」が登場しない生活を送っている自分が、そこに思い至ることができないのは、良し悪しではなく、ただの必然かもしれないのだけれど。
(蛇足ながら「支援してくれるひとびと」を指して「支援団体」と表現することにもなじみがなく、このたびはじめてきちんと認識しました)
最終的にイプシロン(伊藤昌子)の提案で、『ヨカナーンは「やばい支援団体の人」』(=支援団体には話が通じる人も多くいるため、彼は例外であることとしよう)という方針で落ち着く一同。
全体のトーンはあくまで和やかであり、なればこそ垣間見える、個々の人物の背景(抱える事情)が印象的な場面である。
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溶けていく境界
前置きでずいぶん字数を使ってしまいました……。
さて、この日拝見したのは物語も後半、
『サロメ』の稽古が佳境に入り、ふとしたことから稽古=お芝居=虚構、と現実の境目が溶けていく一場面だ。
契機になったのは、ゼータ(海老根理)のこんな一言。
ゼータ ……イプシロン、これさ、ヘロデアもクソだよね。なんかだんだん、みんなヘロデアに味方してきてない?オメガがやってるからかもしれないけど
ヘロデアは、ヘロデ王の妻でサロメの母たる女性である。
ふだん、ムードメーカーのような道化のような役割を進んで背負うゼータが、彼女にはずいぶん手厳しく、批判のことばをつぎつぎに重ねる。
反論するのは、オメガ(大川翔子)を筆頭とする女性陣だ。
(こちらも蛇足ながら。
この場面における、ゼータ派と反ゼータ派をわかりやすく分かつ要素が、身体上の性別であることに意外な感じを受けました。
なお、ゼータ派はひとまず、ゼータひとり。がんばれゼータ)
オメガ 前の夫の弟がクソじゃなかったら、別に問題なかったじゃない。お母さんは悪くないって
デルタ (中略)わたしは、こういうタイプのお母さん、嫌いじゃないです。自分勝手に生きていってもらいたい
提示された「物語」を、今ここで生きている自らに引き付けてみごとに(再)解釈し、
ゆえに、かつて負った痛みを、
今ここで発することばに乗せることで、徐々にヒートアップしていく面々。
ベータ それ、現実の母親の話になってない?
ベータ というかみんな、現実の母親の話になってない?
場の流れを変えたのは、意外にも、
二度に渡り場の全体を窘めることばを発した彼女=ベータ(前原麻希)、
ではなくて、
様々な事情で「今ここ」にはいない、ある人物のことばだった。
(ぜひ劇場でたしかめてほしいと感じたので、役名はあえて伏せます)
??? 未来の話をしましょうよ
さて、このあと彼らは未来の話ができたのか?
については、やはり、この場で安易に説明してしまわないほうがよかろうと感じるので、この話はここまでにします。
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砂上に楼閣を建設する尊さ
前回、この演劇は、座組の強固な安定に支えられて成立している、と書いた。
その事実を思えば思うほど、登場人物たちの拠って立つ基盤の脆さが際立ち、やるせない気持ちになる。
ふつうの家庭に生まれていれば、彼らは、こんな思いをしなくてよかった。
とは、書きたくない。
ふつうかふつうでないか、という曖昧な基準が問題の中心に置かれるべきではなく、
ふつうだろうがふつうでなかろうが、子供は当たり前に、大人に守られるべき存在と思うからだ。
この作品を観ていると、守られなかったかつての子供たちが、
カッターで、薬の過剰摂取で、わが身を傷つけるさまは、
死を願うことばを口に出すことは、
シンプルに「生きたい」という悲鳴のあらわれであるということがよくわかる。
台詞や動き、場面の演出がこうこうこうだから、と頭で理解できるわけではない。
ただ、わかるのだ。
これはごく個人的な考えになるかもしれないのだけれども、
社会という巨大で(残念ながら現状、理不尽なことも多い)システムの中でなるべくすこやかに生きていくには、それぞれが安心して暮らせるお城を持つことが必要だと思っている。
そして『パンとバラ~』の登場人物たちは、(お城の材料として)本来ならば水はけがよく栄養に富んだ土をふんだんに与えられるべきところ、バケツ一杯の砂しか渡されなかった、ように、見える。
もし自分が、彼らと同じ境遇に置かれたならば。
生来の根気のなさで、お城づくりなどすぐに諦めてしまっただろう。
大人になることさえもできなかったかもしれない。正直に、そう思う。
でも、彼らは諦めていないのだ。
はたから見たらどんなにか滑稽で痛ましく、希望がないように思えても、
彼ら自身、希望なんてないとしか思えない日がどんなに多くても。
「砂上の楼閣」は、一般的にはネガティブな意味で使われることばだ。
けれど、砂上に楼閣をつくろうと闘いつづけるひとをわたしは美しいと思うし、砂だから脆い、それがどうした、とも思う。
お城は、お城なのだ。
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