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パンとバラ稽古場レポート② 不安定の礎(いしずえ)は安定


以下は、12月のとある日、演劇ユニット・趣向の12月公演『パンとバラで退屈を飾って、わたしが明日も生きることを耐える。』の稽古を拝見したレポートです。
この作品には、過去に暴力をふるわれた人、現在精神障がいを持つ人が多数登場します。
もしも読んでいて体調が悪くなるなどありましたら、どうかご無理なさいませんよう、お願い申し上げます。
また、内容に言及する箇所もございます。事前に知りたくないという方は、ぜひご観劇後にご覧くださいませ。 (浅見絵梨子)

あらすじ

コロナ禍の合間をぬって、その読書会は行われている。
本を読むことに慣れているわけではないけれど、人生が退屈すぎて、退屈はほとんど恐怖で、わたしたちはここに来る。
カッターを人に預ける。クレジットカードも人に預ける。
『人形の家』を読んでおしゃべりをして、
『サロメ』を読んでおしゃべりをする。
そしてわたしたちは初めて「演劇」をはじめる。

緻密な積み重ねで「雑」をつくる

お邪魔したのは、ちょうど「テンゴ(=2.5次元演劇)」を愛する雑誌編集者・ベータ(前原麻希)が、高らかに推しへの愛を歌い上げる場面を稽古している最中。
全体をまっすぐ見つめていた演出の扇田拓也さんが、考え考え言葉を紡ぐ。

それは、「もう少し『雑さ』を入れたらどうか」という提案だった。

再演、かつ(現在の社会状況を鑑みれば)奇跡的に初演のメンバーがほぼ再集結できたこの作品。
稽古の進行中はもちろんのこと、それ以外の場面においても和気あいあい、互いの呼吸を知り得ていることがはたから見ていても伝わる。
ゆえに、ひとつひとつの場面が、隙なく仕上がってしまうのかもしれない。
けれど、この演劇の中に登場する人たちは、ほとんどみんな演劇に関しては素人。だからもっとほころびや荒々しさがあるはず、ということかと思った。深い……。

その後、その場面についていったい何度の試行がなされたのか、そのなかで劇作家であり読書会の中心的な人物たるイプシロン(伊藤昌子)が、うっかり再現不可能な(?)動きをしてしまってどれだけ場が沸いたのか、にはあえて言及しないでおきます。
なお、この数日後には届く小道具の紙吹雪を存分に使い、本番までまだまだ稽古されるとのことで、楽しみです。

曲に込められた意図を読みこなす

この日は、歌唱指導の松尾音々さんがいらしており、扇田さんにコメントを求められる場面があった。

開口一番、
「もったいない」
と言い切る松尾さん。

曰く、
前半の曲と後半の曲には、劇中における意味において明確な差異が存在する
後半の曲を際立たせるためには、前半の曲を技術的に歌いこなすことが必要

キーになるのは、十六分音符の扱い。

「劇中歌、『攻める』歌詞には十六分音符が多く使われる傾向がある。
それを意識して歌うこと。
疾走感を大切にしてほしい。
今のままでは、音楽的にもったいない」

そこまでの稽古で、場の笑いを誘うことも含めて十分に機能していた歌の数々について、専門家の立場からきっぱりと意見を伝える松尾さんは、凛々しくかっこよかったです。

それを受けて
「(楽譜を読めないので不安はあるけれども)まず、言われたとおりにやってみます」
と素直にリアクションする俳優さんもまた、素敵だったなと思います。

十六分音符を「旗がふたつついてるやつ」と表現する松尾さんも、キュートでした。たしかに。

不安定を支えるゆるぎない安定

冒頭で触れたとおり、この作品には、精神面においてゆらぎを抱えるひとたちが多数登場する。
というよりも、そういうひとしか登場しない。
正直に言って、事前準備で初演の映像を見ることや、戯曲、参考にと提示いただいた資料に目を通すことにも、それなりの体力を要する。

稽古場に伺う前は、生身の肉体と感情を使って創造する側のご負担はいかばかりか、と思いをはせていたのだが、
あにはからんや、初めての稽古場にはゆるぎない安定感が存在した。

それは、理想的な家族の在りかた、とされるものにもすこし似ているな、と感じる。

オノマ氏によるお花の写真

専門家ではないので、この作品に関わるにあたって、にわかに得た知識を訳知り顔で転記するのははばかられる。
なので、すこしだけ自分の話をすると、家や家庭、親というものに安心というイメージはまるでなく、
それはシンプルに、家にいる大人たちが不仲であったことや、自分自身の価値観に共感してくれる他者が家の中に存在しなかったということに尽き、誰も悪くはないのだけれど、
兎にも角にも、ながいこと「家族=安心」という公式を、自然に身に着けているひとのことは、別の世界の住人であるかのように眺めていた。

それはなにも、血縁関係のある者同士でのみ紡ぎ得るものではないと、肌で知ったのは幾年か前のことだ。

その関係性の土台にあるものを、なんと名付ければよいだろう。
共感と、信頼と、……敬意?

どう呼ぶにせよ、それらを下敷きにすることで「安心」が生まれ、
なんと「安心」が存在する場では、たいがいのことにチャレンジできるのである。
そうして、ひとりびとりがぐんぐんと、日盛りの下のひまわりのように伸びていくさまを『パンとバラ~』の稽古場でも目にすることができたことを、興味深く感じている。

不用意に触れればかんたんに壊れてしまうような繊細な世界観は、
どっしりした安心に支えられて成立している。
そんなことを知っていただいたうえで作品をご覧いただくのも、また面白いのではないかと思う。

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