禁じ手を使うのは追い詰められた時だけ、常に禁じ手を使うとどうなるでしょうか?そこには破滅があるだけです。今日の写真は撮り忘れちゃったです。
禁じ手とはルール破りや、モラルに反すること、やってはいけないことです。急成長した企業はそれまで禁じ手とされていたことをして生き残ったのです。
社員は家族です。それまでの企業は家族の生活を守るために存在したのに、最近の企業は、「社員は人材という労働力で必要な時間と場所で使うもの」必要なくなれば切り捨てるのです。
リストラで人件費を減らして利益を出そうとするのです。残された労働力で今までと同じ売り上げができたならばそこに利益が生まれるのです。
それは数字上の理論で人はお金のためだけで働いているわけでは無いのです。単純作業であればロボットにとって換えられるのです。そのロボット操作する人になれば次はその操作をAIが学習して労働は、体力、知力共に必要で無くなるのです。
残った人材として必要とされるのは感じる力の感力です。ロボットにもAIにもない感力を忘れて人は要らないと人を減らすと感力も減るのです。
残った人の感力は不平不満に使われて、創造、進歩、魅力は薄れてしまうのです。魅力のない企業、進歩しない企業、創造できない企業に将来は無いのです。
家族を切り捨てる禁じ手は、新たな家族に生まれ変わるか、破滅しか無いのです。企業の禁じ手は、吸収合併です。自分の会社を大きくするために弱った他所の会社を買い取るのです。自分が必要とする部分以外を切り捨てて利用するのです。
切り捨てられた人は家族では無くなるのです。家族の縁を切るのは掟破りの禁じ手だったはずなのに戦後の企業はグローバル化して家族ではなく人材としてしまったのです。
社員を家族としなくなったのは新しい考え方では無いのです。破滅への道、禁じ手だから日本はしなかったのです。
ライバル企業は他の家族です。切磋琢磨してお互いに繁栄することで、文化、文明が発展するのです。利益だけ求める企業はその商品が売れなくなったならば終焉を迎えるのです。
信念を買うのです。信念を売るのです。信念を具体化するのです。
私の信念は「幸せになる」です。「自分の欲が満たされる幸せ」よりも「他人の幸せを感じること」の方が幸せです。その幸せの基準は「不幸せでなければ幸せ」「幸せに気づく感受性を育てたい」と思うのです。
何をするにも信念があるのです。「食べていければ良い」「欲は持たない」など私には似合わない信念です。美味しいものを食べると幸せだからです。
禁じ手、掟破り、抜け道などと表現されているのは、モラルで守られている方法です。それを使うと信じてもらえない人になるのです。
禁じ手は切羽詰まって信用を失っても仕方がないと思わなければ使ってはいけないのです。ニックネームを変えるのは禁じ手でも掟破りでも抜け道でもありません。でも信用をなくしてしまいます。
簡単に名前を変えることをしてはいけません。慎重になるべきです。なぜならば、それまでの名前に対するイメージを覆すことになるからです。なぜ前の名前ではいけないのでしょうか?
今回のニックネームの変更は進歩です。たぬきよりもパンダの方がイメージが良いのです。和歌山県白浜町にはパンダが居るのです。町中にパンダが溢れています。
ぬいぐるみにお菓子、ポスターに電車のラッピングまでパンダ、パンダ、パンダです。可愛らしさで比較してもパンダの方が可愛く思うのはしかたがありません。
商品化することは難しいパンダですが、ニックネームに使うには最適だと思ったのです。たぬきさんからパンダさんに変えたことはたぬきさんには申し訳なく思うのですが、たぬきがパンダに変化したのだとご理解ください。