善人が馬鹿を見る
善人が馬鹿を見るはよく聞く言葉です。馬鹿正直に生きれば得な事が一つもないという事実から「ちょっと」した悪い事は許されると思ってしまうのです。
「ちょっと」した悪い事の「ちょっと」は「ちょっと」だと思っているのは自分の想像です。
そのような例を三つお話しします。
最近のレジはバーコードやタグを読む事でキーボード入力が少なくなっています。人のやる事は間違いが多いから出来るだけ、人の介入を減らしているのです。
ニトリで買い物をして家に帰って確認したらレシートに打たれていない商品がありました。遠方のお店ですが、よく利用するお店です。電話で連絡しようとしたら混み合っているようで繋がりません。
直接お店に電話したくても電話番号がわかりません。仕方なく商品を使う事なく数日後にレシートと商品を持ってお店にお金を支払に行きました。
車でしか行けない遠方ですが、支払っていない商品を持っている事は気持ちが落ち着きません。
お店で説明して支払う事ができたのですが、防犯カメラで確かに買われたものか確認するという事で数分待たされた事には驚きました。
次はユニクロでの事です。ユニクロは商品をレジ台に置くだけで精算が瞬時にできるICタグを使っています。レシートはその場で確認。レシートを見ると買っていない商品が買った事になっているのです。お店の人に見せて確認してもらうと確かにおかしいのです。その原因は前に買った商品の色違いを買う為にタグをポケットに入れていた事です。
サイズ修整した商品はレジ台に近づかないようにと注意されていたのですがまさかポケットに入れていた商品タグを認識するとは気付きませんでした。
買った商品以外がレシートに載っている場合は隣の人が商品を袋詰めする時にレジ台の近くに置いた場合があります。
近くのスーパーでの事です。バーコードを読ませる以外のレジ打ちに数量の入力ミスや小さな商品がカゴに残っていて買っていなかった事になっていた事に気づいてレジの店員さんに訊いたら商品棚に戻したと言われました。なかった事にしていたのです。
ちょっとした事だと思っているのはあやまちを起こした人です。
過ちに大きいも小さいも無いのです。どうすれば2度と同じ過ちを起こさないようにできるのか?常にその繰り返しをしているのです。
自分は善人でちょっとした過ちは仕方が無いと正当化する癖がつくと悪い事でも自分で正当化して改善される事は無いのです。仏の顔も三度までだと思って誤ちは三度以上しない事にしましょう。
善人が馬鹿を見る事はありません。
悪人の言い訳が善人が馬鹿を見るです。どんなに偉い人でもすぐに悪人になってしまいます。それは自分は善人だと思いたいからです。善人であるわけがありません。ついうっかりしてしまうのが人間です。最後の詰めが甘いのが人間です。
血の通っていない単純作業を繰り返しできる機械であればミスは少ないでしょうが、弱い身体と弱い精神で強い感情の人間がまともに1日が終わるとは思えません。
忘れないようにメモをして、そのメモをどこかに忘れても生活はできるのです。善人であればこのようなミスを許しませんが、悪人は笑って誤魔化すのです。
メモを次から忘れないように工夫するのが善人です。
忘れる事が悪人では無いのです。そのあとの行為で善人、悪人に分かれるのです。人のフリ見て我がフリ直せとはそう言う事です。
善人が馬鹿を見るのは悪人なのに自分は善人だと思い込んでいるからです。
天は見ています。あの時に善行をしていたから今の自分があるのです。
善行とは自分の過ちを認めて二度と同じ過ちをしない事です。良い事をするのは善行ではありません、良い事をするのは当たり前のことです。
その当たり前のことができないのに自分の過ちを認めて二度と同じ過ちをしないと誓えるでしょうか?
悪人とは自分の過ちを認めて二度と同じ過ちをしないと誓える人です。
善人のつもりの人は自分は過ちを起こさないから同じ過ちをしても過ちだとは認めないのです。そのまま推し進めようとします。
そもそも、善人悪人の言葉に惑わされていたり、誤ちは過ちでは無いと屁理屈が頭に浮かんだり事実を言葉で理解しようとするから真実が見えなくなるのです。
馬鹿正直という言葉に惑わされることなく真実、事実を理解して認識して表現しましょう。自分が正しいと思う事を伝えれば良いのです。
正直に生きる事に悔いはありません。