昭和史に決して残らないpanの物語7
第7話 pan、バスケットボールで教えることに目覚めるってよ
退院後、しばらくはバスケットから離れ、養生しながら勉学に励もうとしていた・・・が、やはりバスケットへの思いが捨てられず、ほどなく再入部することに。
しかし、走らない跳ばないシュート打たない生活が長かったことにより、以前のような動きのキレは戻らず、自分の体が思うように動かないという体験を初めてすることになった。
「走ってるつもり」なのに全然スピードが出てないとか、
「跳んでるつもり」なのに体はほとんど浮いてないとか、
コンナハズジャナイ状態を何度も経験した。
もちろん、練習を続けることで次第に元に戻りはしたが、また膝を傷めるんじゃないか、ということに対する恐怖心のようなものは常に頭のどこかに怨念のように(違)張り付いていたように思う。
練習はきつかったけれど(特に男子バスケと同じ練習メニューの夏の合宿は食欲が皆無になるくらいしんどかった)同期の5人の結束の固さに救われ、勉強ナニソレなバスケ漬けの生活を送っていた。
どれくらい勉強ナニソレだったかというと、物理で「1」をとるくらいだった。(果敢にも理数系を選んでしまうというチャレンジャーだったので、物理を履修しなくちゃいけなかったのだ)
皆さんはご存じだろうか。「1」つまり赤点は、本当に成績表に赤い文字で「1」と書かれることを。
さすがにそれ以降はなんとか赤点を免れる程度の試験勉強はして、「勉強せよ、さもなくばバスケット部をやめよ」と親から言われずにすんだのは幸いであった。
手術の後遺症なのか食べすぎによる体重増加からなのか、膝の調子がよくないことが年に数回あって、そんな時期には練習できずにマネージャー的なポジションで他校に練習試合を申込んだり、各種大会にエントリーする事務手続きをしたりもした。
ちょうどそんなとき、バスケット未経験な一年生が入部してきた。シュートの打ち方どころか、ドリブルもまともにできない色白の、ニキビの赤さがやけに目立つ可愛い後輩だった。
当然のごとく、先輩風を吹かせたい私は彼女につきっきりでバスケットをバの字から教えた。
そこで、「人にものを教える」ことに開眼することになる。
私、教えるの、向いてるんじゃね?と、思い始めたのだ。
実は当時、将来の仕事として看護師を目指していた。安直ではあるが母が看護師だったし他に就きたい職業もなかったし、手に職をつけなさい、と母から常々言われていたからだ。
しかしここで、教師になるという将来像が浮上してきた。
幸い、得意な国語で教師になるための学科が高校のすぐ近くの県立大学にあったので、手近なところで叶いそうでもあった。
かくして私は「看護師」から「中学の国語の教師になってバスケット部の顧問をする」に進路変更をすることになった。
その進路は大学進学間際の土壇場でまた変わることになるのだが、それはまた次回。