昭和史に消して残らないpanの物語9
第9話:pan、小論文の指導を受けて障害児教育に目覚めるってよ
タイトルですでに内容の95%がバレてる感が否めないが、そこに至る経緯を簡単に追ってみよう。
バスケット初心者の後輩にバスケのイロハを教える中で、「教える」ことに開眼した(と勝手に思っていた)panは、進路を看護師から国語の教師に変更し、県立女子大の国文科を目指すことにした。偏差値的にもまぁ、当時の成績で頑張れば合格するであろう、と目論んでいた。
夏が終わり、遅ればせながら受験勉強を始めたが、それまでのサボりのツケからか、秋ごろの模試の結果はB~C判定で、決して盤石とは言えなかった。担任からも「もうすこしがんばってはどうかね」と言われていた。が、なぜか私自身はここからラストスパートがきくと信じて疑わなかった。「やればできる」「私はまだ本気出していないだけ」と、楽観主義で甚だしい勘違いマンであった。
いちおう、県内では進学校と呼ばれている学校だったが、進路に関しては比較的放置されていて、担任も、共通一次試験(当時)受けて、その点数によって志望校変更したり、滑り止め受けたりすればいいんじゃね?的なアドバイスしかくれなかった。いや、私の志望校よりも偏差値の低い国公立大学探すのむずいんですけど、な状況だったんだけれども。
担任のほどよい放置のためか、私自身緊迫感にかけており、受験勉強がつらかった思い出はない。焦ったり胃が痛くなったり誰かに当たったりすることも一切なかった。(第2次反抗期はあんなにひどかったのにね)なのでその頃の記憶はあいまいだ。
唯一、正月に私は親戚の家に旅行させてもらえず、受験生らしく母と留守番して、テレビで「南極物語」(タロとジロのやつですね)のロードショーを観たことをなぜか鮮明に覚えている。
そして年明けの1月25日、共通一次試験を受ける。
この時の強烈な思い出がひとつある。前の席の、同じ学校だが話をしたことはないTくんが、何の教科だったか失念したが、試験終了直後に顔面蒼白になって頭を抱えていた。数分後、マークシートの解答欄がひとつズレた状態で解答しており、修正する間がないまま提出したことが分かった。非常に非常に非常に気の毒だが仕方がない。これも後で分かったことだが、彼はかなりの秀才で、浪人して翌年、筑波大だったか一橋大だったかに行ったらしい。
そして私はというと、想定を1割ばかり上回る自己採点の点数であった。
上出来だ。この点数だったら、志望校合格はほぼ約束されたも同然だ。なんたって、2次試験は小論文だけだったから。
ということで、2次試験対策として、進路部で国語科の先生が出す課題に沿って小論文を書き、提出して添削してもらう日々が始まった。
その中で課題図書として出会ってしまったのが「教師になる」という本であった。(いまは絶版になっているっぽい)
内容は小学校の特別支援学級(当時の知的障害児学級)のドキュメントというか、日常を描いたものだった。その本を読んで天啓を得てしまったのだ。
私、養護学校の先生になる!!!
かくして、養護学校の先生になるための学部学科を調べ始めた。県内よりも県外の、教員養成の大学に行った方が同じ志をもつ仲間がたくさんいるだろうし、師事したくなるような専門の教授もたくさんいるに違いない、という結論に達し、”県外の大学不可”(主に経済的な理由で)という父親を何とか説き伏せ、天啓に導かれて進学することになった。
結論から言うと、「同じ志を持つ友」や「師事したくなるような教授」にたくさん巡り合えたかというと、特にそんなことはなく、地元の大学に行っても結果は同じだったような気がする。しかし大学生のうちに県外に出て暮らすという経験は、してよかったな、と思っている。
テレビの民放が2チャンネルしかない田舎を出て、”道行く人がみんな速足”な都会の生活をいかに送るのか、大学時代のエピソードは次回。