映画「Arc アーク」感想【ネタばれ】~描かれなかったリナの生
石川慶監督の近未来SF作品
石川慶監督作品「Arc アーク」(2021)観てきました。石川監督と言えばポーランドの王立ウッチ映画大学で演出を学ぶという経歴の方で、撮影監督のピオトル・ニエミスキとのコンビによる「愚行録」(2017)、「蜜蜂と遠雷」(2019)が高い評価を得ています。二作品とも異国人の眼を通しているからなのか、どこか異化された日本の風景が硬質な美しい映像で描かれ、語り口も感情を抑えて淡々としながらも激しい情念を感じさせ、確かな見応えが印象に残っています。
今回の「Arc アーク」、原作は中国系アメリカ人のSF作家ケン・リュウによる短編小説「円弧」。若くして子供を残し故郷を捨てた女性が、プラスティネーションという死体を防腐処理してオブジェ化する技術者となり、その後不老不死の肉体を手に入れるという、彼女の「生と死」を巡る人生を描いた物語となっています。
「永遠の命は人を幸せにするか(しない!)」というテーマは、昔話から漫画やアニメに至るまでこれまで何度も語られてきたことで、今さら興味は惹かれなかったのですが、あの石川慶監督が近未来SFを撮ったらどうなるんだろう?という期待はありました。「蜜蜂と遠雷」のクライマックスでの「暗闇の中の雨と馬」の美しいイメージにタルコフスキー的なSF感覚を感じたからかもしれません。
端正で美しい映像‥‥しかし、
古い灯台ある寂れた海岸の風景、何かに触れようと宙に手を伸ばすリナ(芳根京子)、印象的な美しいシーンから始まります。生まれたばかりの子供を捨てて街を出た彼女は、退廃的な酒場に飛び入りダンサーとして登場、やさぐれた態度でブーイングを浴びて店を追い出される。その様子を見ていた訳あり風のセレブ永真(エマ)(寺島しのぶ)に声を掛けられて、リナは永真の助手としてプラスティネーション職人の道を歩み始める。
ろくに口も利かず世間を睨みつけるような芳根京子の演技も魅力的だし、死体をオブジェ化するという悪趣味でケレン味たっぷりな描写も見ていて楽しく、前半はけっこうワクワクしながら引き込まれていきました。しかしこのあと、永真が精神的に追い詰められ、あとを継いだ弟の天音(岡田将生)が新事業「不老不死」を始め、天音の妻となった30歳のリナが「不老」の肉体を手に入れる‥‥という展開になってくると、だんだん気持ちが離れていってしまったんですよね。
確かに「きれいな映像」は見ごたえがありましたし、感情を抑えながらもしっかり見せる演出も好みですし、解釈が難解なわけでもありません。ただ物語の展開の中心にいるリナの心の移り変わりが分かりづらくて、淡々と時間が流れていってしまうんですよね。私の解釈能力の問題もあるのですが、なんとなく釈然としないままに鑑賞してしまったので、このモヤモヤを解消するためにケン・リュウの原作にも一応目を通すことにしました。
映画版で欠落したリナの生
原作の「円弧」は135歳を迎えたリーナ(アメリカ人、舞台もアメリカ)が記者たちの質問に答えながら人生を振り返るという一人称で書かれた短編小説です。なので、小説ではリーナの内面描写が物語をひっぱっていくわけで、人物に踏み込まず客観的な映画とは対照的に、物語の流れを楽しむことができました。そこで自分なりに気づいた、映画版の「Arc アーク」が分かりにくい理由をあげていきたいと思います。
小説「円弧」にあって、映画「Arc」に無いものはリナの「生=情熱」です。映画では、リナが理由もなく子供を捨てて故郷を出たあと都会にやさぐれた姿で登場するので、もともと薄情でひどい性格のように感じます。しかし原作では、彼女が16歳の時に妊娠が発覚したとたんに逃げ出す金持ちのボンボンが登場し、さらに反対を押し切って出産はしたものの子供に愛情を感じられず、未来への閉塞感から出会ったばかりの男の車に乗って町を出るというエピソードがあり、これだけでも主人公リナへの共感度は違ってきますよね。しかも彼女はこの男にも捨てられ、食うに困ってプラスティネーションの職に就くことになります。裏切られての人間不信から、死体への共感、ともとれなくない展開です。
そのあと夫婦ともに永遠の命を得たはずが、夫の天音が何らかの遺伝子の影響で老化が加速し急逝、残されたリナは「不老不死」を選択しなかった(出来なかった)人々に終の棲家を無料で提供する施設を作ります。この施設自体が原作にはないいちばん大きな改変だと思うのですが、後半はこの施設のある島の漁村を舞台にしてモノクロの映像で語られていきます。
やがて35歳の容姿のまま100歳を迎えたリナの施設に、末期がんの女性芙美(風吹ジュン)と施設での生活をかたくなに拒む夫の利仁(小林薫)がやってくるのですが、すでに老いを迎えている利仁はリナが遠い昔に故郷に置き去りにしてきた息子であることが判明します。不自然な延命を拒み、あるがままに死を迎え入れる芙美と、それを看取る利仁の姿に見失った「死の尊厳」と「生の意味」を見出したリナは、不老不死の処置を中止し死を受け入れる選択をします。
原作においてもリナが死を受け入れる結果は同じなのですが、過程に大きな違いがあります。原作では芙美は登場せず息子(チャーリー)はひとりでふらりと現れ、リーナは年老いた彼を看取ることで「死の尊厳」を知ることになります。さらにそのあと映画には描かれないエピソードとして、リーナは最後の恋人を作り、彼との間にできた子供をチャーリーの生まれたちょうど100年後に出産します。その夫もやはり「不老」の処置を受け入れず、その理由として、死があったからこそリーナとの情熱的な出会いがあったのだと打ち明けて、彼女に「死があるからこそ生がある」ことを説きます。
見事な脚色と、美しい映像に隠されたもの
原作のこの流れは、主人公リナ(リーナ)の「失っていた生の情熱を取り戻すために死を受け入れる」という心境が分かりやすいのですが、あくまでも小説として言葉で語られているので、映像としては説明過剰の面白みのないものになってしまうでしょう。その点、この脚色は映像として見せるうえでひじょうにうまく構成していると思いますし、雪の中、死期を迎えた芙美を乗せた車いすを押しながら労わる利仁の姿など、美しい説得力のあるシーンになっていました。
また、プラスティネーション職人の永真が引退する件も、原作小説にはない見事な可視化がみられます。原作の引退理由は彼女の「死は避けがたいもの‥‥あたしは嘘をつくのに疲れたんだ」という言葉で説明されていますが、映画版では、永真が自宅で死別したパートナーの女性をプラスティネーション保存しており、その死への抵抗の虚しさから精神を病んでいくというふうに脚色されてます。復元に限界を感じてバラバラに放置されているパートナーの死体は、「死に抵抗する」ことの狂気と虚しさを強烈なインパクトで見せてくれます。
そしてラストシーン、最後に登場する135歳のリナを演じた倍賞千恵子の説得力はすごいものがありました。冒頭の16歳のリナの動きとシンクロさせることで、しわの目立つ手や表情の堂々とした存在感が美しく、年を重ねること、死で人生を締めくくることの尊厳をじゅうぶんに語ってくれています。
観念的な言葉で描かれた小説の世界観をどう視覚的に面白いものにしていくかということに関しては、ひじょうによく構成された映画になっているのですが、惜しいなあと感じてしまうのは、主人公であるリナの心情の流れが今一つ読み取りにくいことなんですよね。これは芳根京子’の演技が悪いということではなくて、リナ自身の主観的な生の体験を省いて、客観的な視点で淡々と事実を積み上げていく映像を選択してしまったことが理由だと思います。確かに映像は美しいのですが、リナの人生をドラマとして引っ張っていく強さがありません。
受け身の観察者としてのリナの視点より、リナ自身の体験した主観的な感情へと映像が寄っていかなければ、「死の喪失がもたらす生の退廃」も「取り戻すべき情熱」も感じ取ることが出来ません。静謐な世界観をもった映像は見応えがあったぶん、そこに揺さぶりをかけるような激しい感情がみられればよかったなあ、と思いました。
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