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愛情≒パン・デピス~Pandepis d'amour~『第26話:黒い森のトルテ編⑤』(26/29)

「にいさま! こちら! こちらですわ!」
 街中をはしゃぎ回るトルテを見失わないように追いかけた。辺りには、コットンキャンディや動物型のチョコレートを作る屋台なんかが様々立ち並んでいる。1年の中で最も多く粉砂糖が降る日。今日は、甘く冷たいケーキのための祝日——シュガー・スプリンクル・デイだ。
「にいさ……きゃっ」
 駆け回りすぎて、粉砂糖で足を滑らせるトルテをぎりぎりのところで支える。腕力には自信がないから、こういうことは勘弁してほしい。
「落ち着きなよ、トルテ」
 ついでに頭や肩に降り積もった粉砂糖を払ってあげながら注意すると、トルテは薄紅色の頬でにっこり笑った。
「だめですわ。だって、にいさまと一緒にいられて、とっても楽しいんですもの!」
「……そうだね」
 僕も笑い返した。自然に見えているだろうか。



 今日、トルテが眠るまでが、僕の命のタイムリミット。今日1日をなるべく悔いのないように過ごして、できるだけ楽しい思い出を残す。僕のいなくなったあとも、トルテが良かったことをたくさん思い出せるように。本当ならそんなことは構わず早く消えた方が良いのだろうけど、どちらにせよトルテはきっと泣くだろう。だったら、1つでも多く幸せな思い出があった方がいい。
「今度はあちらを見てみましょう、にいさま!」
 全然懲りていないトルテに手を引かれて、街を走り抜ける。彼女を遠ざけなくていい時間はひどく安らかで、今がずっと続けばいいのにな、とまだ考えてしまう。けれどこれは終わりが決まっているからこそ訪れた安寧で、そうでなければ以前のように彼女に冷たい態度を取り続けるしかない。つまり、僕の終着点は変わらない。トルテをこれ以上傷つけたくないのなら。
 レモンキャンディの太陽が沈み、金平糖が輝きはじめるまで、僕とトルテは街中を遊んで回った。

******

 すっかり暗くなった頃、遊び疲れて家に帰る。トルテは玄関を通った時点でもううとうとし始めていて、まるでねじが切れかかったおもちゃみたいだった。ねじを回してしばらくは元気に動き回るけど、急に止まってしまう。よっぽど楽しかったらしい。
 僕は父様と母様に一言挨拶してから、トルテを寝室に送り届けることにした。僕の態度が元に戻ってすっかり安心しきったおふたりの、温かい視線が少しつらい。父様と母様にも心の中で謝罪とお別れを言って、リビングを立ち去った。
 トルテをベッドに寝かしつけて、その寝顔をしばらく眺めた。あどけなくて安らかで、何よりも守りたいもの。それなのに傷つけるようなことをしたくて堪らなくなる。触れたり、口にしたり、或いはもっと最低なことを。無意識に手を伸ばしかけたところで、彼女の首筋の絆創膏が目に入った。僕は逃げるように寝室を立ち去った。

******

 普段あまり使わないせいで軋むドアを開ける。屋上に入った瞬間目に飛び込んできたのは、闇夜の中に輝く無数の粉砂糖。シュガー・スプリンクル・タイムも近いみたいだ。一昨年の今頃、粉砂糖を眺めながら、『ずっと一緒にいよう』ってトルテと約束した。約束は守れないけど、これでトルテのことは守れるはずだ。
 屋根の際に立つのは、思っていた以上に怖かった。地面がこんなに遠いなんて。この距離を、多分意識を保ったまま落ちていくのだと思うと、足が竦んだ。でも、トルテのためだと思えば何でもできる。たった1歩踏み出すだけ。そう、ほんの1歩。
「にいさま……っ」
 いるはずのない彼女の声がして、思わず足を止めた。振り向くと、トルテが今にも泣き出しそうな顔で屋上に立っていた。
「トルテ……」
「にいさまのご様子がおかしいと思って、寝たふりをしていましたの……そうしたらにいさまが、こんなところに……」
 トルテの瞳にじわり、と涙が滲んでいく。
「にいさま……どうして……?」
「……」
 予想外の出来事で、思考がまとまらない。この先どうしよう。誤魔化すことはできそうにない。沈黙している間に、トルテは続けた。
「先月からにいさまとまた一緒にいられるようになって、トルテはとても嬉しくて……でも、それはトルテだけでしたの……? 本当はにいさまはまだ……おひとりで苦しんで……」
 トルテは大粒の涙をこぼした。駆け寄って慰めてあげたくなる、でもそれはできない。一度向こう側に戻ってしまったら、多分もう二度と、この屋根の端に立つ勇気は出ないから。
「……違うよ。これが一番良いんだ」
「……?」
 怪訝な表情で顔を上げるトルテに、今できる限り毅然と語りかけた。ほんの1歩先にある終わりに体が竦んで、声も震えていたけれど、最後まで兄らしく見えるように。妹を守れる兄でいられるように。
「君のことがこの世界で一番大切なんだ。だからこそ君には、真っ当な幸せがあってほしい。ずっと元気でいてほしい。それには僕が邪魔なんだ」
 なるべく冷静に話したつもりだったけれど、トルテはやっぱり悄気た顔をした。
「……にいさまはトルテが好きで、トルテはにいさまが好きで……それではいけませんの?」
「……僕は君に危害を加えるものは許せない。もしそれが僕だったら、尚更だよ」
「危害だなんて……思いません」
「危害以外の何だって言うんだよ……」
 続ける声が震えたのは高所の恐怖のせいじゃなかった。自分の心の内を打ち明ける恥ずかしさや自己嫌悪。けれど言わなければトルテは納得しないだろう。
「……僕はさ。君のことを守らなきゃいけないのに、君に……触りたくなる。食べてしまいたくなる。……この1ヶ月だって、ずっと我慢してたんだよ」
 僕がいかに危険なのかを主張しなきゃ。呼吸が苦しくなる。
「君の肌に触れて、最悪なことをしたくなるし……時々、君を解体して食べてしまう夢を見る。このままじゃ、君に何をするか分からない。だから、消えなきゃいけないんだ……」
「……」
 しばらく沈黙が落ちた。納得してくれただろうか。そう思った矢先、静かな声が耳に届いた。
「……にいさまは、トルテを守りたいのですわね」
「……うん」
「だからどうしても、これ以上一緒にいられないのですわね」
「そうだよ……」
「でも、でもね、にいさま。それなら、トルテの気持ちはどうなるのですか……」
 トルテの気持ち? 僕は顔から手を離す。言われて初めてそんなことを思い出した気がした。
 はっと視線を向けると、トルテは涙ぐんだ瞳で僕を正面から見つめていた。
「にいさまはいつもおひとりで、トルテの幸せを決めてしまわれるの。これが正しい、これが正解だって。でもそれはまるで、トルテが考えることも何もかも、間違いだって、気のせいだって、言われているみたい」

「トルテのにいさまへの気持ちは、嘘でも間違いでもありませんのよ。少なくともトルテは、そう思います」

「ねえ、にいさま。ひとりで決めてしまわないで。トルテにも、選ぶ権利がありますの」
 トルテはすっかり粉砂糖の積もった床に1歩踏み出す。彼女がどうしようとしているのかすぐに分かった。
「……来ちゃ駄目だ」
 拒んでもまるで聞こえていないみたいに、僕へ真っ直ぐ近づいてくる。あと3歩。2歩。1歩。僕は咄嗟に怒鳴った。
「来るな……!」
「だめ。にいさまのおっしゃることは聞きません」
 トルテは悪戯っぽく微笑んで、僕と彼女の距離は0歩になる。
「つかまえた」
 言いながら、トルテは少し背伸びをして、僕を抱きしめる。世界の全てより僕ひとりが選ばれたんだと分かった。望まない選択のはずなのに嬉しくて、そう感じる自分が悔しくて。じわりと視界が滲む。こぼれ落ちそうになったそれを、トルテの指先が拭った。
「まあ、いけませんわ。トルテはとっても嬉しいの。悲しいことはひとつもありませんのよ」
 間近にトルテの愛らしい笑顔がある。それはこの上ないほど幸せな光景で、ずっと幻に見てきた景色。けれど同時にひどく胸が痛んだ。僕がおかしくならなければ、トルテはこんなことをしなくて済んだのに。
「ごめんね……」
「嫌ですわ、何をお謝りになるの。トルテが勝手についていくだけですわ。……もう、にいさまったら。そんな顔をなさらないで、ほら、空をご覧になって」
 言われるがまま、俯いていた顔を上げる。粉砂糖が金平糖の光に照らされて、きらきらと降り続けていた。思わず目を丸くする。1年で最も美しい時間。
「シュガー・スプリンクル・タイムですわ!」
 トルテの声は跳ねるようだった。僕の肩に手を置きながら、楽しげに笑う。
「シュガー・スプリンクル・タイムを過ごしたふたりはずうっと一緒にいられる……ねえ、本当になるのかしら、にいさま?」
 ふと、僕を見るトルテの瞳が潤み始める。一瞬沈黙し、視線を彷徨わせたあと、頬を赤く染めて囁いた。
「大好きですわ、にいさま」
 それから唐突に、頬に柔らかい感触。キスをされたのだと気付いて、思考が止まった。思わず離れようとしたけれど、トルテは僕を逃さなかった。
「トルテが自分で勝手にしただけですのよ。にいさまは悪くありませんわ。……一度、してみたかったの」
 こんな時でもトルテはどこまでも朗らかで、ただのひとりの恋する女の子だった。



 屋根の縁に立って、下を見下ろす。足が浮いた一瞬後には墜落しているはずの場所をぼんやりと眺めた。
「……ねえ、抱きついてもよろしくて?」
 後ろからトルテが話しかけてくる。もちろん勝手に抱きつくだけですわ、と色々言い訳しながら。
「……いいよ」
 僕はトルテの方に向き直って腕を広げた。トルテは意外そうに目を丸くしてから、笑って飛び込んでくる。僕はその勢いでトルテを抱きしめた。柔らかな感触、甘い匂い、ひんやりとした温度。ぴったりとはまるパズルのピースのように、あるべきものがあるべき場所にある、そんな安息感。ひとつのケーキがふたつに分かれてしまったという彼女の言い分も、あながち間違いではないのかもしれない。不思議とあの衝動は起こらなくて、穏やかに満ち足りた気分だけがあった。でもやっぱりこれも、終点が決まっているからこその平穏なんだろう。
「いつでも大丈夫ですわ、にいさま」
 腕の中でトルテが囁く。僕は頷いて、それからちょっと口篭って。迷ったけれど、最後にやっぱり、ずっと言いたかったことを言うことにした。
「大好きだよ、トルテ」
「……! はい……!」
 僕は後ろ向きに1歩踏み出す。

******

 片足が踏み抜けて、僕たちは落ちる。粉砂糖は空に向かって降って、金平糖の光は遠くなる。

******

 そうして、ふたつに分かれてしまったケーキは元のひとつに戻った。僕たちの物語は終わり。遠回りと徒労に満ちた物語はようやく幕を閉じて、僕たちは永遠を手に入れる。最善とは言えないけど、僕たちなりに、わりあい妥当なエンディングだ。



「……やはりこうなってしまったか。残念だ」
「スパイスに運命を狂わされた君たちの、最期の夢は甘くあったことを願う。安らかに眠りたまえ」
「……」
「……甘すぎるな」


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