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毒親育ちのおばさんが「逃げる」ことをおすすめするわけ

ロボット5体と好きなお稽古系の
仕事をさせてくれる優しい旦那様
そんな環境に恵まれた私は
まあ人から見ると能天気なマダムに見えると思います

でもここにたどり着いたのは
今から40年前、私が17歳の時に
家出を決意したから

そしてそれを実行に移したからだと思います

今の私があるのはひとえに

それを実行した「私」のおかげです

私の父は保険の代理店をしていたけど
昭和の親父に多い女好きの父で
しかもこの人
いちいち結婚して離婚するんです
女性にとっては遊ばれるよりはいいのかもしれないけど
いちいち母親が変わるこっちの身にもなってくれ…
おかげで私は母が7歳までに3回変わりました

なので私にとって「母親」というのは全て
「パパの女」でしかなく
女たちにとって
私の気を惹く事はパパの気をひくための手段

幼少の頃の私は祖母しか気を許せる人がいなかった
3回目の母には私が8歳の頃に弟が出来た
私の腹違いの弟

まあ当然継母の愛情は全面そっちに行くし
なんかされたわけでもないけど
家は居心地がいいわけがない
うちは貧乏ではなかったけど
子供にとって「ホッとする場所」ではなかった
私は居心地の良い場所を求めて
バイトを始めた
マクドナルドでした

父は見栄っ張りなので
お嬢に見えるようなバイトしかさせてくれなかったし
それを振り切って反発する根性も私にはなかった
それが当時はマクドナルドだった

でも今にして思えばバイトは私に色んな事を学ばせてくれたし
「働けばお金がもらえる」というシンプルな事を教えてくれた
そして私は決意した

家出しよう

高校卒業後の進路は親に内緒で「家事手伝い」にして
進路を決めなかったのは学年で確か二人だけ

家出は5月10日に決行
単純に3月が高校の卒業式で
2か月くらいバイトして10日がバイトの給料日
だったから

そのまま家に帰らず
あの頃長崎ではJRの事を「汽車」と言ってたけど
初めて「汽車」に乗って同級生が進学のために
一人暮らしを始めた博多のアパートに転がり込みました

初めての都会は福岡でした
頭の中では長渕剛の「勇二」という歌が回ってた
今なら尾崎が回りだすのかも・・・

この話は長くなるのでざっくりいうと
辛かったら捨てていいんだよ
逃げていいんだよ

だって「ママも辛いのよ」とか泣いて見せる母親
これは母親の常套手段なんだから
そんな手に引っかかってはダメ

辛いのは絶対に弱者である子供

それを己の弱さで麻痺させるなんて
「家族宗教」です

今すぐ毒親からは逃げなさい

39年後私は今ではもう誰もいない捨てた街に
この世の中で唯一私を大事にしてくれた人と
戻ってくる事が出来ました

大丈夫
貴方にも出来るよ

親が言うほど世間は厳しくないし
でも自分で思うほど世間は甘くないけど

でも多分逃げた方が今より絶対幸せになれる

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